ロシアオペラは未だ観たことがなかったので、トルストイ原作の「戦争と平和」のオペラに行ってみた。
開演時間は普段よりも早い7時半で、インターミッションは一回だけだが終了時間は11時45分を予定という長丁場。

今回のプロダクションは、2002年に公演されたもののリバイバルで、当時はネトレブコがナターシャ、ホロストフスキーがアンドレイという豪華なメンバーだったとか。
2002年には未だNYに居なかったが、本当に聴いてみたかった組み合わせ。
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Libretto by the composer and Mira Mendelson after the novel y Leo Tolstoy
by Sergei Prokofiev
Conductor : Gianadrea Noseda
アンドレイ・ボルコンスキー Prince Andrei Bolkonsky (若い寡の公爵 バリトン): Vasili Ladyuk
ナターシャ・ロストヴァ Natasha Rostova (伯爵令嬢 ソプラノ): Irina Mataeva
ソーニャ Sonya (ナターシャの従姉 メゾソプラノ): Ekaterina Semenchuk
ピエール・ボズーホフ伯爵 Count Pierre Bezukhov(アンドレイの友人 バリトン) : Kim Begley
アフロシモーヴァ Madame Akhrosimova(ナターシャ、ソーニャの祖母 アルト) : Larisa Shevchenko
コトゥーホフ元帥 Field Marshal Kutuzov(ロシアの将軍 バス) : SamuelRamey
ナポレオン Napoleon Bonaparte(フランス皇帝 バリトン) : Vassily Gerello
Pilaton Karatayev : Nikolai Gassiev
アナトリー・クラーギ公爵 Prince Anatol Kuragin(エレンの兄 バリトン) : Oleg Balashov

とにかく出演者数が多い。
ソロで歌う人達をパンフレットに明記するのに普通だったら軽く1ページかその半分ぐらいで済んでしまうところを、この作品ではゆうに3ページは使っているぐらい。
ナターシャをたぶらかす女たらしのアナトーリをバラーショフが好演しているのだが、彼の顔写真すらパンフレットにはない。
合唱も相当人数が居る上に、エキストラの兵隊達の行進もあり、「アイーダ」のようなオペラの醍醐味を体験できる。

ナターシャ Natasha と対訳英語に出たりナターリャ Natalya と表示されたりと、内容も次々と変わっていくだけに、字幕も要注意となってしまった。

一幕目最後のシーンで、ピエールが自分は妻子ある身でありながら、ナターシャにも気持ちがあることを悔いているのか、自分自身を戒めているのか、「フリーメーソン」と言う言葉が歌われ、二幕目最初にもやはり「フリーメーソン」と歌われていた。勉強不足のため、フリーメーソンと言えばモーツアルトかと思っていたので、ロシア文学などにも根ざしているとは知らなかった。

二幕目のカーテンが上がると、兵隊達の銃口が客席側を向いていて、隣の女性などは「オー」と驚いていたが、まるでミュージカルの「レ・ミゼラブル」を彷彿とさせる。

ナポレオン率いるフランス軍劣性の知らせをナポレオンが受けるシーンで、一人の兵士が女性のメゾソプラノで所謂ズボン役として登場するのだが、果たして彼女は必要か?と思ってしまった。
確かに前半に比べ、戦場で女っけがなく男ばかりのシーンが続いてしまうせいからかも知れないが、いきなりズボン役は不自然だし、ずっと男性の大きな声を聞かされて来たところでいきなり小さい声の女性扮する男性役というのは違和感があった。
例えば フィガロの結婚 に出て来たズボン役のケルビーノ扮したケート・リンゼーほど存在感があったらまた別だったかも知れないが。

フランス軍がモスクワに侵攻し、略奪等を受けるぐらいならと泣く泣く自分達の街であるモスクワに火を放ったモスクワ市民を嘲るフランス兵に、小人症の人が使われていた。
確かに印象的ではあるが、日本では小人症やダウン症の人を公の電波や映画や劇に使うことは非常に少ないが、欧米の映画やお芝居などでは平気で登場する。今回もその一例。欧米の方がその小人症の人の小人であるということをすでに受け止め、さらに一歩踏み込んであえて起用しているのであろうが、どうも日本人である私にとっては違和感というか、そこまでしなくても良いのではないか?と思えてしまった。果たして、そう思うことこそ、逆差別なのだろうか???とも考えされられたが。

後半になって出てくるサミュエル・レイミー扮するクトゥーゾフ元帥は、最初に出てきた時から拍手が起こるぐらいファンが居る有名な歌手のよう。
重厚感のある役どころと声質で存在感があって良いのだが、同じ音をひっぱって発声する時にビブラートがかかるというか、まるで演歌歌手のようと言ったら良いのか。
老齢であることもあって、自然とそういう声になってしまうのかも知れないが、同じ音を長くひっぱる時には少々うっとうしくもあり。

後半の11場では、フランス軍のモスクワでの略奪や強姦風景が無言劇として行われ、女性が二人ロシア人兵士に暴行されそうになって服をはぎ取られ全裸?(あるいは肌色の何かを身につけていた?)で逃げるシーンも。戦場では、人間は野獣にもなり得てしまい、これが未だにイラクやアフガンなどで行われている現状かも知れないが、オペラという芸術の場で、そこまでリアリティーを追及するべきかどうか疑問を感じた。

数多くのソロの歌手達が見せ場をつくり、盛り上げていたが、自ら街に火を放った為にフランス軍に捕らえられたモスクワの市民が順番に銃殺されていくシーンで、殺されることを怖れつつ撃たれて死んでいくのだが、最後の市民が撃てるものなら撃ってみろと胸を張り、殺されていくシーンでは、前の女性は涙していて、あまりに衝撃的かつ印象に残るシーン。歌手達の歌よりも、もしかしたら一番観客がひきこまれたのではないかと思ったほど。芸術よりもリアリティーが勝ったということだろうか。

また、ナポレオン扮する役者が、モスクワ侵攻に成功してモスクワの地でふんぞり返るシーンでは、彼の足もとには、おどろおどろしい様子で死んで行った人達の立体的な人形が地面に埋め込まれている大地となっていた。なかなかメッセージ色強し。
開演前に、フランスから来たと思われる観光客風家族がこれからオペラを観るにあたって、嬉しそうに少々興奮ぎみに居るのを見たが、果たしてこれだけ「ナポレオンのフランス=侵略者&掠奪者」と描かれていて一体どうとらえているのだろうか。。。
まるで、日本人の南京大虐殺などを中国を舞台にオペラにされたようなものかと。

モスクワの市民達による力強い合唱で、彼らの意思の強さや団結や力強さを現わすシーンでは、いきなり合唱の後ろで、ワイヤーで引っ張られた布製の赤い鳥が出て来た。
まるで 魔笛 のセットを思わせるような物なのだが、せっかく合唱の力強い歌に引き込まれかけている最中にその鳥では、観客の注意がそちらに向いてしまい、逆効果かと。
赤い鳥、つまり火の鳥、不死鳥であるフェニックスを共産党の赤で象徴したのかと思われるが、好きではない。一緒に行ったアメリカ人の友人は思わず私に小声で「私にはターキー七面鳥に見えるわ」と。

11場の最後になると、正気を失い狂った人達が、まるで豚の丸焼きの時に両手・両足を縛って木にぶら下げるようにして、一人の人間をぶら下げながら練り歩いているシーンはなんとも。。。

12場は、戦場で負傷したアンドレイを見舞うナターシャのシーンだが、死んだと思ったとたんむくっと起き上がってナターシャとかつて舞踏会で会った時のように踊ろうとして倒れるアンドレイ。出会った頃を回想した場面だと言う説もあるが、私にはそうは思えず。

最後にロシア軍がフランス軍侵攻を食い止め退散させたことを祝って、フランス軍の旗を投げ捨て、踏んで行くシーンがあるが、旗をないがしろにするというのは、なかなか強烈なメッセージかと。

前半はナターシャとアンドレイの恋物語、公判はピエールは出てくるものの最後のフィナーレでもわかるように、真の主人公はモスクワの民衆ではないかと思われるようなラストシーン。(画像HPより)
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指揮者はゲルギエフではなくイタリア人のノセダ氏。年末年始はなかなか正指揮者が振らないことが多いが、ロシア物と言えばゲルギエフなので残念。

ロシア軍とフランス軍の兵隊総勢約250名のオーディションが10月に行われていた。そのほとんどが俳優や俳優志望だったそうだが、中にはウオール街のブローカーやビルのハンディマンやカトリックの司祭まで居たとか。
一人ひとりの体の大きさなどを採寸し、ぴったり合うようにロシア軍やフランス軍の軍服が作られると言う力の入れよう&お金のかけよう。
出演希望者は、オーディションに合格しても8公演だけで、一回につきメトからもらえる金額は一人わずか20ドル。メトでのリハーサルや出演に際しての拘束時間を考えると、どれだけ物好きな?オペラ好きな?メトの舞台に立ちたいというだけの人が多いかがうかがえる。
今回の公演がその8回目、つまり最後の公演だったこともあり、カーテンコールが終了してカーテンが閉まった後の、彼らのおわったーという大歓声がカーテンの向こう側から聞こえて来たのは面白かった。(画像HPより)
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受け売りの備忘録
プロコフィエフはロシア革命後にアメリカやフランスに亡命するも、そこで失望を味わい、再びソ連に戻り、ナチスのロシア侵略を体験することとなり、オペラを作るきっかけとなった。

改訂するなど、この「戦争と平和」は5つのバージョンがあり、ロシアをテーマにした別のオペラ「セミョーン・カトコ」も作っている。

オペラが書かれた当時、共産党の芸術委員会はオペラを認可するにあたり、貴族生活ではなくロシアの民族意識を強調するようにと条件をつけた為に、ここまで政治食が強くなったとも言われている。