アメリカ人の友人二人に、以前から是非行くようにと勧められていた博物館。
アメリカの移民の玄関口となったNYの移民の歴史について詳しく紹介してくれる博物館で、1850年代からの家をそのまま博物館として使用している。
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ツアーでしか中を観られないが、5階建ての建物の各階で組まれているツアーが異なるので、1890年代に入植したジューイッシュと1920年代のイタリアからの移民の家がそのまま再現されている2階を訪れるツアーに入ってみた。
博物館の受付エリアでもビデオでヒストリーチャンネルの番組を流しており、ツアーが始まるまで観ていたところ(途中から観たので前半の内容は不明)、ヨーロッパからの入植者がやってきた後に中国系の人達が1890年代にやって来たが、安い賃金で長時間働いた為に先にいたヨーロッパ系の反感を買い、以降中国人の入植が禁止される時代があった。その後は、中欧・東欧からの入植者の数も制限されたが受け入れられ続け、出身国によって入国が断られたのは中国だけとのこと。その後ヨーロッパで迫害を受けたロシア系ユダヤ人やイタリア系が入植、自治領のプエルトリコや、新しいところではドミニカなどからの移民も多い。

1890~1924年には約2300万人の移民がやって来ており、この博物館の建物が使われていた1840~60年代、5階建てでワンフロアを4家庭が使用する構造となっており、NYでは初めての大規模な集合住宅だった。多い時で、この一棟に114人が住んでいたこともあった。
1863年に5階まで水を上げることはほとんど不可能で、当時の交通は馬の為、馬の落し物が道に溢れていた。
1901以降にようやく部屋にトイレが設置されたが、それまでは屋外の共同トイレを使用していた。
1924年まで電気がなく、ガス灯を使用していた。

1873年の世界大恐慌時代に住んでいたドイツ系ユダヤ人の Gumperts 一家の家。3部屋あるが、たった一部屋にしか窓もなく非常に狭い。(以下の画像全てHPより)
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因みに、家賃は1870年代で一か月10~13ドル、1920年代で一か月18ドル。
ほとんどの住人がこの家には1~3年程度しか住まずに出て行ったとか。

1920年代の大恐慌時代になると、市から病気などの予防の為に各部屋に必ず窓を一つは設置しないといけないと決められた。
イタリアはシチリア島のパレルモからの移民である Josephine Baldizzi 一家の娘さんは週に1回お風呂に入っていたと。
後年、彼女はロングアイランドに住んでいたが、偶然かつて住んでいたこの建物のそばを通りかかったところ、解体業者が建物を壊そうとしていたので、自分の住んだ家が取り壊されるのは忍びないと、博物館にすることにしたとか。
お風呂はキッチン兼洗面所の流しの横にあるのみで、この形体のタウンハウスにはお風呂が単独はない家もあるとのこと。
この日案内してくれたガイドさんは若干25歳の中国系。両親が香港から移民して来たとのことだったが、この建物から南に徒歩10分程度で行けるチャイナタウンで生まれ育ったと。1991年当時、未だお風呂のバスタブはやはりキッチンにあり、他の人が入浴する際にはキッチンに行ってはならないと言われていたとか。
1920年代と全く変わらない住環境で現在25歳の彼が住んでいたということに驚いたので、その話を後日アメリカ人にしたところ、内部を改修工事するかどうかは大家次第であり、今現在でも、アッパーイーストサイドの1番街から東あたりや古い地区など何処でも、未だにシャワーもなくバスタブだけがキッチン兼洗面所の流しの横にある家もあるよ、とのこと。マンハッタン内には、戦前の建物が非常に多いのは確かだが、同じマンハッタンに居ながら、こうも違うのかとまたまた驚いてしまった。
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そして現在使用していない当時のままの空き部屋は、こんな感じ:
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