名古屋めしには色々特徴があるが、やはり八丁味噌味の食べ物がその最たるものかと。その八丁味噌の蔵のある岡崎に行ってみることにした。

奥山田の枝垂れ桜

八丁味噌蔵を見学しに行く前に、まず、ブログでお世話になっている方お勧めの奥山田の枝垂れ桜を観に。

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岡崎市の指定文化財になっているエドヒガンで、持統天皇の村積山行幸の時のお手植えという伝承があるのだそう。持統天皇が本当に植えたのなら1300年もの樹齢となるが、エドヒガンは1000年ほどの長寿桜の種類だそう。高さ17メートル、幹の太さは2.4メートル、枝張りは17メートルにもおよぶ。一方、エドヒガンを母種、オオシマザクラを父種として生まれたソメイヨシノは寿命が60年とも言われるぐらいで手入れをしなければ短命なのだとか。


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近くには、寒緋桜が開きかけているところだった。竹藪の緑とあいまってなかなか綺麗だったのだが、満開となったらさぞや立派な花のトンネルになるかと。

八丁味噌蔵めぐり

八丁味噌とは、矢作川と東海道が交差する水陸交通の要所にあった岡崎市八帖町の二軒の味噌屋で、伝統製法のまま作られている味噌のみをさすものでその2社の商標。そのため、NHKなどでは「八丁味噌」という単語は放送できないのだそう。
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八丁とは、岡崎城から西に八丁(約870メートル)の距離にあったことからで、かつて八丁村と言われた。八丁蔵通りなる小道もあり、味噌蔵の建物が続く。







恥ずかしいことに今まで八丁味噌と赤だし味噌は同じだと思っていたので、非常に勉強になった。
八丁味噌とは:大豆、食塩、水を原料とし、蒸した大豆を味噌玉にして豆麹にして塩と水で、石をピラミッドのように積んで天然醸造で熟成させる。
赤だし味噌とは:八丁味噌を布巾などで包んで出し汁の入った鍋の中で溶かし出す時、豆味噌と甘口の白味噌を合わせていたが、布巾から赤茶色が出てくることから「赤出し」または「三州仕立」と言われるようになった。つまり、赤だし味噌は、八丁味噌(豆味噌)に米味噌を加えた調合味噌。

八丁味噌カクキュー
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創業は1645年で、現在は19代目。明治25年から宮内省の御用達となっている。私は観ていないのだが、NHKの朝ドラの「純情きらり」のロケ地にもなったのだとか。

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工場内見学をさせてもらった。大正末期の建物で文化庁の登録文化財に登録され、今も本社として使われている。
資料館もあるので、中の展示を解説してもらった。建物は、昔は川の氾濫を想定して、石組みで一段高くなっている。






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大正13年、干支では甲子(きのえね)の蔵なので「甲子蔵」は、入ったとたん味噌の香りにつつまれる。高さも直径も2メートルある杉桶に6トンの味噌を仕込んで3トンの石を積み上げる。桶は100年は使われ、竹のわっぱで止めてあるが、今はもう竹のわっぱの職人がいない為、ワイヤーで止めている桶がほとんど。
こがし麦(こうしん麦)を発酵を促すために塩・水・豆に加えているとのこと。

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見学の最後には、八丁味噌のお味噌汁と、赤だしのお味噌汁、そしてコンニャクの味噌田楽を食べさせてらい、お土産として赤だし味噌をもらった。
カクキューでは、八丁味噌だけを作っているので、赤だしに入れる白味噌は外注しているのだそう。







併設されている食事処休右衛門では味噌を使った食事なども出来る。イメージ 13
八丁味噌アイスクリームパフェ400円と、八丁味噌ラガー600円を。
パフェには、八丁味噌風味のソフトクリーム、味噌プレッツエル、味噌カステラ、そして味噌のトッピングがかかっている。味噌の風味のソフトクリームが案外いける。
ビールは、味噌香が強いのかと思っていたが、そんなこイメージ 14とはなく、ダークなベルギービールを飲んでいるかのよう。















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北海道産の大豆と沖縄の塩を使った八丁味噌の粒状のものを購入。
試食させてもらったが、まるで京都の大徳寺納豆を食べているような風味で、それだけでおつまみになるような深い味わい。

矢作大豆を復刻させ、360年前の味を作るべく、今年の2月に仕込んだものがあり、2年後にそれが出来あがるとのこと。





八丁味噌まるや

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延元2年(1337年)弥治右衛門による。












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三河産の大豆と、岡崎市保久町神水にある柴田酒造場の天然の軟水の井戸水である「神水」を利用して初めて昨年秋に出荷が出来たという限定の八丁味噌があったので、それを購入。






岡崎城

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西郷頼嗣(よりつぐ)によって築城されたが、享禄4年(1531年)に徳川家康の祖父である松平清康が現在の位置に移されて以降、岡崎城と呼ばれるようになる。
天文11年(1542年)に家康が城内で誕生。後には、秀吉の家臣である田中吉政が城主となって文禄元年(1592年)に拡張工事を行い、追って複合天守閣に再建され、東海道の宿場町としても栄えた。
しかし明治維新にんって取り壊されてしまったが、昭和34年に昔の外観の天守閣が再建されたのだそう。


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天守閣からの眺め。それほど高くないので、近年できたマンションビルの方がずっと天守閣よりも高い。


家康誕生の時に産湯をくんだ井戸。
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菅生川と矢作川の合流地点にあることからも、川からのアクセスが出来るようになっていたのだそう。







夜にはライトアップされていた。イメージ 21