鹿児島市内

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言わずと知れた西郷隆盛像。
昭和2年、没後50年を記念して建立が計画され、昭和12年(1937年)に序幕されたこの像は、忠犬ハチ公像も制作した彫刻家によるもの。
台座も含めると約8メートルにもなる。







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ザビエル公園のザビエル滞鹿記念碑
1549年(天文18年)8月15日に、宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。島津家15代貴久は領内布教を許可。しかし仏教徒の反対や貿易船が来ないなどのトラブルから、ザビエルは鹿児島を去って平戸から山口、堺、京都まで行った後、帰航途中の中国で亡くなった。上の石造りの建造物は明治に建てられ戦災で焼失した記念堂の一部で、戦後1949年ザビエル渡来400年を記念して、ローマ法王の寄付金により教会が建築され胸像が建てられた。

城山展望台
城山公園の展望台から臨む桜島と鹿児島市内。
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イメージ 21桜島が活火山だということを認識させられるものとして、テレビで桜島噴火と風向きについて放送していたり、積った灰を捨てる場所として、ゴミ置き場とはまた別に設置されていたり。
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イメージ 23西郷隆盛終焉の地
明治10年(1877年)9月24日に、政府軍により銃弾を受け、
この場所で別府晋介の介錯により最期を迎えたのだそう。
西郷洞窟
西郷隆盛が最後の5日間を過ごしたと言われている洞窟。
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南洲墓地
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南洲公園内の墓地には、西南戦争で亡くなった人達のお墓があり、解説の人がおられた。
隣接する西郷南洲顕彰館の内部にも、解説して下さる男性がおられ、色々とお話下さった。
当時の(竹刀)木刀が展示されていたが非常に重かった。敵の肩口から斜めに一刀両断にする戦い方で、刀同士を合わせて戦う方法ではなかったので、刀の鍔は小さくなっていたのだそう。西郷隆盛は南の島に流罪になっていた時にフィラリアにかかり、それ以降あぐらがかけなくなってしまった、など色々なエピソードをお話くださった。

石橋記念公園
江戸時代末期に架けられた5つのアーチ石橋のうち、1993年の大水害で2つが流失したが、残る3つの橋をここに移設保存している。
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仙巌園(せんげんえん)
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万治元年(1658年)に、藩主の別邸として造られた。
1万5千坪にも及ぶ。
桜島を築山、錦江湾を池に見立てた借景庭園。

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正門は明治28年(1895年)に完成。


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園内で、名物の両棒餅(じゃんぼもち)を。




両棒(じゃんぼ)とは、鹿児島弁訛りで上級武士が刀を二本脇に差していた姿で、それを模した餅である。薩摩藩の武士の大半は郷士か下級武士で、刀は一本脇に差すのがやっとだったので、庶民が遠回しに皮肉り楽しんだのではないかと推測される。
作り方は上新粉で作った楕円状の団子に竹串を二本指して、上から生姜風味の甘い砂糖醤油のトロミたれをかける。見た目・味・食感はみたらし団子やあぶり餅に近い。 wikipediaより 

お昼には ざぼんラーメン、そして 明石屋 でかるかん饅頭などを。

指宿(いぶすき)温泉

一路南下して指宿温泉へ。イメージ 8
指宿と言えば砂蒸し。

イメージ 9ゴールデンウイークだったので、30分ほど待たなければならなかったが、待った甲斐があったかと。背中からほかほかして来る上、上に盛ってもらった砂が冷えてくるとまた温かいものをかけてもらえるので、気持ちが良い。目の前が海というのも面白い。15~20分程度楽しんだ後は温泉へ。
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この摺ヶ浜(すりがはま)の海岸沿いでは何か所も砂蒸しが行われている。

砂蒸しのメカニズムとしては、近くの山手の泉源から浸みこんだ温泉が砂浜の地下に自然に湧き出して砂を温めているというのが通説。



宿での夕食。 
イメージ 11焼酎や梅酒割などと共に。


イメージ 12焼八寸











イメージ 13近海産鮮魚の盛り合わせ
イメージ 14ピーナッツ豆腐の小鉢
茶碗蒸し
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イメージ 16しめじの土瓶蒸し
イメージ 17瀬魚の煮おろしかけ 

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きびなご菊花盛り 酢味噌添え

イメージ 26薩摩黒豚のしゃぶしゃぶ

イメージ 27薩摩汁、御飯、香の物

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果物はタンゴール(みかんとオレンジを掛け合わせたもの)