世界遺産に登録されている熊野古道の伊勢路と、日本三大民宿のひとつが紀北の紀伊長島にあるので、一泊二日で行ってみることにした。
まずは腹ごしらえをと、東紀州名物のさんま寿司を食べに行った。その様子は こちら
熊野古道まで行く途中にも、素晴らしい自然がいっぱい。
川の水が水蒸気となっていて、幻想的な景色を見せてくれていた。
熊野古道は6つの大きなルートに分かれ、そのうちのひとつである伊勢路だけでも24ものルートに分かれている。
八鬼山越え
ここは西国第一の難所と言われ、かつては山賊や狼が出没し、勾配も厳しい10キロのコースとのこと。
ほんの入口だけ覗かせてもらったが、何匹もの蟹さんが悠々と出迎えてくれた。
馬越(まごせ)峠道
重厚な自然石が敷き詰められた石畳で有名な5キロのコース。
とても綺麗なヒノキ林とシダに囲まれた途中の2キロの石畳は、熊野古道の伊勢路の中で最も美しいとされ、良好に保存されていて、なるほどこの部分は世界遺産に登録されているだけあるかと。
石は麓から運び上げたのではなく、現地調達された。石の表面がところどころ白くなっているのは材木を曳下ろす際に苔が削り取られたもので、より狭まった場所もあるが、道幅は紀州藩の駕籠の幅に合わせて1間半(約2.7メートル)を基準として造られた。
(今回は、さわりだけを見学しただけだったが)
梅雨でじめじめ凄い湿気だったが、シダ達は大喜びをしているようで、とにかくとにかく、シダとヒノキ林が美しかった。
大きな岩が浸食され様々な奇岩となり、その間を水が流れアユやアマゴが飛び交うのだそう。
透き通る水が非常に綺麗だった。
尾鷲ヒノキで作られた館内には、熊野の歴史や古道、そして伝わるお祭りなどの様子が無料で展示されていて、ボランティアガイドさんが説明してくださる。
この船は紀北町の関船祭のもの。漁業と会場安全を祈願する秋の例大祭で、熊野灘の海賊を取り締まった関船を担いて練り歩くのだそう。
そして今回の目的である、お宿の割烹の宿 美鈴へ。その様子は その2 で。
まずは腹ごしらえをと、東紀州名物のさんま寿司を食べに行った。その様子は こちら
熊野古道
熊野古道まで行く途中にも、素晴らしい自然がいっぱい。
川の水が水蒸気となっていて、幻想的な景色を見せてくれていた。
熊野古道は6つの大きなルートに分かれ、そのうちのひとつである伊勢路だけでも24ものルートに分かれている。
八鬼山越え
ここは西国第一の難所と言われ、かつては山賊や狼が出没し、勾配も厳しい10キロのコースとのこと。
ほんの入口だけ覗かせてもらったが、何匹もの蟹さんが悠々と出迎えてくれた。
馬越(まごせ)峠道
重厚な自然石が敷き詰められた石畳で有名な5キロのコース。
とても綺麗なヒノキ林とシダに囲まれた途中の2キロの石畳は、熊野古道の伊勢路の中で最も美しいとされ、良好に保存されていて、なるほどこの部分は世界遺産に登録されているだけあるかと。
石は麓から運び上げたのではなく、現地調達された。石の表面がところどころ白くなっているのは材木を曳下ろす際に苔が削り取られたもので、より狭まった場所もあるが、道幅は紀州藩の駕籠の幅に合わせて1間半(約2.7メートル)を基準として造られた。
(今回は、さわりだけを見学しただけだったが)
梅雨でじめじめ凄い湿気だったが、シダ達は大喜びをしているようで、とにかくとにかく、シダとヒノキ林が美しかった。
熊野古道 とは wikipediaより抜粋
熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。
主に以下の6つの道を指す。
* 紀伊路(渡辺津-田辺)
* 小辺路(高野山-熊野三山、約70km)
* 中辺路(田辺-熊野三山)
* 大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km)
* 伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km)
これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的景観」)として登録された。熊野古道の遺構の特徴として、舗装に用いられた石畳が残っていることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからである。
歴史
熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。
907年の宇多法皇の熊野行幸が最初と言われる。
熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行った。これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。
江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようだ。
明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。
熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。
魚飛渓(うおとびけい)
大きな岩が浸食され様々な奇岩となり、その間を水が流れアユやアマゴが飛び交うのだそう。
透き通る水が非常に綺麗だった。
三重県立熊野古道センター
尾鷲ヒノキで作られた館内には、熊野の歴史や古道、そして伝わるお祭りなどの様子が無料で展示されていて、ボランティアガイドさんが説明してくださる。
この船は紀北町の関船祭のもの。漁業と会場安全を祈願する秋の例大祭で、熊野灘の海賊を取り締まった関船を担いて練り歩くのだそう。
そして今回の目的である、お宿の割烹の宿 美鈴へ。その様子は その2 で。
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