近江町市場、主計町、ひがし町を廻った後、武家屋敷のある長町(ながまち)へ。

武家屋敷(長町)

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藩政時代は、全て藩士の住居だったこのエリア。平士(へいし)と言われる中級藩士が多く、20軒以上ある。
加賀藩では、知行高によって拝領する宅地の面積が決められていた。
例えば、100石~200石は
200坪、300石~400石までは300坪・・・1500石~
1900石までは600坪。
甲州流の兵法により、T字路や袋小路が多い。
 
 
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屋根の周囲は土塀をめぐらし、高禄になると長屋門、物見、小者部屋や厩が設けられた。
金沢の街は寛永、元禄、宝永に何度も大火に見舞われているが、この長町だけは類焼を免れ、藩政時代そのままとなっており、用水沿いの家では、堀の下から用水を引きいれ、庭の曲水に利用するなどしている。
大野庄用水は、金沢で最も古く、物資運搬などに利用され金沢城築城にも役だった。
 
 
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曰窓(いわくまど)という窓から、門番をする仲間(ちゅうげん)の人達が来客をチェックしていた。
この家は、一般の家で公開はしておらず現在も
住んでおられるのだそう。
 
 
 
 
 
 
 
野村家
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天正11年(1583年)に、前田利家が金沢城に入城して加賀藩の基礎が築かれた際、直臣として野村伝兵衛が、奉行職などをして廃藩置県の11代まで家督が続いた名家。往時は1000坪以上(3000平方メートル以上)の敷地を所有し、北前船で蝦夷地と通商も行っていた。
 
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加賀藩お抱えの絵師の法眼佐々木泉景の襖絵。
法眼位は、狩野派の最高位で、その次に尾形光琳や俵屋宗達などが位するのだとか。
 
 
 
 
 
 
 
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藩主の前田利家と同じ尾張への郷愁から、庭には、この地では成育が稀な山桃の木が植えられている。
 
 
 
 
 
 
 
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明智光秀の戦勝に関する感謝状
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聲桶(こうけい)
うぐいすの鳥かごを桐箱に入れて鳴き声を
響かせて風情を楽しんだもの。
 
 
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床板は樹齢約1000年のモミジの一枚板、
天井はイネ科の植物である真菰(まこも)の茎張りで、
非常に珍しいお茶室なのだそう。
 
                          江戸時代後期の久谷庄三赤絵大鉢
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高田家跡
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長屋門が残っている。
平士の屋敷は、主屋の周りを土塀で囲み、入口に家の格に準じた門構えを設け、屋敷構えと呼ばれていたが、武士にだけ許されていた。

 
 
 
 
 
 
足軽資料館
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足軽とは、戦闘時に駆り出される歩兵のことで、江戸時代には武士の最下層。
加賀藩の足軽は長屋ではなく庭付一戸建て(建坪20~25坪)に住んでいた。
足軽は10戸ひと組ずつまとまって住んでおり、上記の土塀や門の武家屋敷とは異なるが、町人が住む町屋とも異なり、生垣などで囲まれた平屋の屋敷構えとなっていた。
 
 
足軽は戦国時代はゲリラ隊や鉄砲隊など団体戦闘要員として活躍し、豊臣秀吉のように出世することが出来たので、農民の多くが足軽を志願した。
しかし、平和な江戸時代に入ると足軽の数も制限され、足軽株なるものを売買したり、養子縁組をすることで足軽の身分を保持しようとすることもあった。
 

尾山神社
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加賀藩祖の前田利家と正室のお松の方を祀る神社。
慶長3年(1599年)建立で、現在の社殿は明治6年に移して新築された。
和漢洋の三様式を用いた門には、五彩のギヤマンの三層楼門は国の重要文化財。てっぺんの避雷針は日本最古。
当時の職人たちは西洋の石造建築について不案内だったことから、門の石柱は西洋風だが実は中は木造。
 
 
 
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正面の神門には、前田家の家紋である梅鉢。
加賀藩では、菅原道真が前田氏の先祖であるとし、
菅原道真が梅を愛したことから、前田家の紋章が「梅鉢の紋」となり、現在では金沢市の市章となっている。
 
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本殿は和風
 
 
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神社本殿は煉瓦の壁に囲まれて
いるが、金沢で最初に使われた煉瓦。
 
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東神門は、金沢城の二の丸に建てられた
唐門で、桃山風御殿建築様式。
 
 
 
 
 
 
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菊桜が咲いていた。
もともと兼六園に咲いていた桜で、京都御所から前田家に与えられ国の天然記念物となっていたが、枯死。その枝を接ぎ木して育てたもの。
200枚もの花弁がつき、咲き始めが深紅、徐々に薄紅色になって、落花の時には白くなり、花弁が散るのではなく柄をつけたまま落花するのだそう。
丁度、咲き始めたところだった。
 
 
 
 
翌日は、寺町、にし町、そして21世紀美術館へ。