前日に 宵山 を堪能し(その様子はその1その2その3 で)、翌朝の山鉾巡行も観に行った。

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四条河原町の辻回しを経て、河原町を北に上がってくる長刀鉾
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長刀鉾
 (なぎなたほこ)

長刀鉾は32基ある鉾や山の中で、必ず一番先頭を行く。
籤取らずの鉾や山は8基あるが、それ以外は、籤取り式で籤を引いて、巡行の順番を決める。
籤取り式は室町時代である1500年から始まっていて、現在では京都市の市議会議場で行われる。
長刀鉾が一番先頭を行くのは、その昔、四条通が現在の約3分の1の道幅で、四条通の一番東に位置する長刀鉾を追い抜いて他の鉾や山が進むことが出来なかったことから。

長刀鉾は高さ24メートル、約11トン。
最上部の長刀は、疫病邪悪を払うとされ、もともと真剣が使われていた。昨年までは1981年製の錫箔のものだったが、30社や町内の寄付により、今年プラチナ箔の長刀に新調した。長刀の最大幅は10センチ、長さは1.2メートル。
前掛や胴懸に、ペルシャ花文様絨毯や中国やインドや中東の16~18世紀の絨毯が使われていたが、現在は復元品。

四条烏丸でお稚児さんや補佐役の禿(かむろ)の少年達が長刀鉾に乗り込む。
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お稚児さんは、神の遣い、代役として色々な行事に臨むのだが、古来は船鉾以外の鉾には全て生稚児(いきちご)が乗っていた。
昭和4年に放下鉾の稚児が人形になったのを最後に、現在ではこの長刀鉾だけに生稚児が乗る。
生稚児は本来、稚児舞を行い非常に需要な存在なのだが、お稚児さん選びが大変だったことから人形へと移行していった。

お稚児さんは、13日に八坂神社で五位少将、十万石大名のお位を授けられ、17日にこの山鉾巡行を終えた後にそのお位返しを行う。その5日の期間中は、自分の足で地面を踏むことが禁止され、男性によって世話が全てされるので、母親の作ったご飯も食べることが出来ないとされている。
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禿(かむろ)の少年達は自分で歩いて長刀鉾に乗り込んだが、お稚児さんだけは、ごうりきさんと言われる男衆に担がれて登場。登場した時は2人がかり(上の画像)、鉾に乗る時は1人のごうりきさんに担がれて上る。
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お稚児さんや禿(かむろ)の少年のヘアスタイルは前髪もすっぱり、うなじ部分も独特のカット

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河原町御池界隈も物凄い数の見物客

お稚児さんの衣装は40年ぶりに新調され、右側の禿(かむろ)の少年はお稚児さんの弟で、22年ぶりに兄弟で務めることになった。左の禿の少年はお稚児さんの同級生。
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お稚児さんも暑いのでお化粧直しタイム。その時には周囲の方達が扇子や団扇で隠していた。

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稚児舞
落ちないように周りの方達が支える中、身を乗り出して舞われる。


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霰天神山(あられてんじんやま)
京都に大火があった時に霰が降って火が消え、天神様が降って来たとされ、それを祀ったのが起こり。
前懸(左の青い懸)は16世紀のベルギーで製作された毛綴だったが痛んだ為に昨年復元新調、胴懸は上村松篁・淳之親子の原画花鳥綴織。

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孟宗山(もうそうやま)
筍山とも言い、病身の母を養う孟宗が、母の為に雪の中で筍を掘り当てたという中国の故事に基づく。
胴懸は、平山郁夫氏の「砂漠らくだ行」の日と月。

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芦刈山
故あって妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁がやがて妻と再会を果たす夫婦和合の姿を表す。ご神体の人形の着物は、天正17年(1589年)銘を持つ重要文化財指定の小袖で、山鉾最古の衣装。胴懸は、1994年作の尾形光琳原画の「燕子花図」とパンフレットにはあったが、実際に懸っていたのは
旧胴懸の江戸時代のもののようだった。

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函谷鉾(かんこほこ)
中国戦国時代に、孟嘗君が鶏の声によって函谷関を脱出できたという故事に基づく。前懸は旧約聖書創世記の場面を描いた16世紀末の毛綴で重要文化財だったものを平成18年に復元新調。胴懸は17世紀李氏朝鮮絨毯、花文様インド絨毯、球取獅子図中国絨毯。この鉾は天明の大火(1788年)に焼失し、天保10年(1839年)に再興され、それ以降稚児人形を使っている。辻回しには、竹ではなく柳を使って回していた。

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油天神山
朱塗りの社殿に天神像を安置している。見送り(後ろの懸)は、毛綴の宮廷宴遊図だったが平成2年に梅原隆三郎氏原画の「朝陽図」綴織になった。胴懸は前田青邨原画の紅白梅。

四条傘鉾
傘と棒ふりばやしが巡行する古い鉾の形態で、応仁の乱以前に起源があるが、明治4年以降途絶えていたものを、昭和63年に町内で復活させ32番目の山鉾として巡行することとなった。
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月鉾
破風の彫刻は左甚五郎作と伝えられ、四本柱や破風飾の金具などはとても華麗で山鉾の中では最高のもの。胴懸はインドやトルコの絨毯。一番重く、乗っている人達も入れた総重量は約11.88トン。
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保昌山
丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語に基づき、
保昌が式部の為に紅梅を手折ってくる姿を表現。
ご神体の人形の頭部は明応9年(1500年)、
胴体部分は寛政(1789~1800年)頃の作とされている。
胴懸は円山応挙(1733~95年)の下絵で近年に
復元新調し、下絵そのものは屏風仕立てにして保存されている。
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太子山
聖徳太子が四天王寺建立にあたり、山中に入って良材を求めたことに基づく。他の山は松を立てているが、この太子山だけは杉を立てている。胴懸はインド刺繍。
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鶏鉾
天下太平で訴訟用の太鼓も必要なくなり苔が生えて鶏が宿ったという中国の故事に基づく。胴懸は草花文様インド絨毯で近年復元新調されたもの、見送り(後ろの懸)は16世紀頃にベルギーで政策された毛綴で江戸時代初期に輸入されたものと考えられ国の重要文化財。
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辻回し
車輪の方向を変えることが出来ないので、車輪の下に竹などを挟み込んで水をうち、一機に引いて滑らせ方向を変える。本来、鉾の車輪はアスファルトではない地道に合わせて作られたものであり、水をうって竹を使って滑らせていた。現在も青竹を使う鉾が多いが、アスファルトではなかなか滑り辛く柳など他の素材を使う鉾もある。3回で90度回すのが良いとされている。昔は辻回しの際に鉾が倒れたこともあるのだとか。

鉾や山は、重いものでは12トン弱あるが、一切釘は使っておらず、縄で縛ってあるのみ。
鉾の場合、電線などの障害を調整する屋根方4名、囃子方は通常、鉦方8名、笛方8名、太鼓方2名で、交代要員が加わり約40名、曳手が40~50名、音頭取が2名(辻回しの時のみ4名)となり、お稚児さんが乗る場合、
稚児方4名とお稚児さんや禿に大人がつくので11名増える。

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この日も非常に暑かったのだが、涼しげに観ている芸子さん?舞妓さん?達。皮膚圧の発汗反射の作用を使って、顔には汗をかかないように着付けているとのことだが。

今年は宵山と山鉾巡行が土曜と日曜に当たった為、土曜の京都は36.7度の暑さがあったにもかかわらず、昨年の金曜の宵山よりも1.5倍多い45万人、山鉾巡行は昨年と同じく20万人の人出となった。
祇園祭自身は、あまりにこの山鉾巡行や宵山が盛大なので知られていないが、実は7月1日~31日まで毎日色々な行事が行われている。
実際に、山鉾巡行があった日の夕方にはお神輿が3基ねり歩くので、夕方から京都市内は交通規制が再び始まったのだが、観光客が通行止めになっているとも知らずに延々とバス停で列を作っていた。

各鉾の前懸、胴懸、見送りなどを観ても、16世紀頃のものなどが今も飾られていて、当時から色々な交易が諸外国となされていたことも感じ取れると同時に、復元新調された物のみならず、新しい物に変えられるなど、ずっと未来に続くお祭りであることが想像できた。
未だ未だ鉾や山の巡行は続いたのだが、あいにく予定があったので、後ろ髪をひかれる思いでこの場を後にした。
とても奥が深いお祭りなだけに、もっとゆっくり時間をかけて、是非また堪能したいものだ。