宮妻渓 もみじ谷 に行った後(その様子は こちら)、長島経由、祖父江に行こうとしたとろこ、長島でコスモス畑に出くわした。

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いきなりピンク色の絨毯が広がっていたので、一瞬レンゲ草?とも思える光景だったが、時期が異なるので近寄ってみると、コスモスだった。

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良く見るコスモスよりも背も低く小さい花なので
別の種類なのかも知れないが、何カ所もの
休閑地に生えていたので、ピンクのパッチ
ワークのようだった。




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全く宣伝をしているふうもなく
誰も見に来ていなかったが、
一か所には
「ご自由にコスモスをお持ち帰りください、ただし土は持って帰らないで」
と書いてある看板があった。







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イメージ 5コスモス畑の向こうには長島独特の輪中の家。


長島は、名古屋からは西方の愛知県と三重県の中間にある。
長島の東に木曽川、西に長良川、そして揖斐川に囲まれた、もともと7つの小さな島があったことから 「ななしま」 が変化して「長島」となったそうだが、平均海抜がマイナス1.7メートルと言う土地なだけに、高い堤防の内側の土地に、石垣で作った高い土台の上に家がある場合も。


輪中とは: wikipediaより抜粋

岐阜県南部と三重県北部、愛知県西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)とその支流域に存在した堤防で囲まれた構造あるいはその集落のことである。
鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、標高が低いために高潮などによる水害に苦しんだ農民たちがそれまで下流側に堤防が無い「尻無堤」に堤防を追加し集落全体を囲う最初の輪中である高須輪中が完成した。その後周辺の集落もこれに習い、周辺地域には数十の輪中が形成された。木曽川や長良川の強力な水流が作りかけの堤防を流してしまうことも多く、人柱が捧げられることもあった。

江戸期においては愛知県西部が尾張藩の領土であったため木曽川西岸の堤防は尾張藩を守るために構築された御囲堤よりも3尺(1m)低くしなければならないといった不文律もあったため(異説あり)水害が絶えず、岐阜県側で特に輪中が発達することとなったと言われる。ただし御囲堤は国境よりも東側にあり、また木曽川の河口までは延びていなかったため尾張国内でも弥富市などの御囲堤に守られていなかった地域には多くの輪中が造られている。

明治時代に入って木曽川、長良川及び揖斐川の三川の大規模な治水事業により水害は激減したため輪中の必要性は薄くなり逆に道路交通に支障をきたすとして多くが削り取られたり取り壊されたりした。また戦争中の食糧難によって比較的上流にある輪中は次々に田畑にされ、ほとんど残っていない。
この後、祖父江にイチョウを観に行った。その様子は こちら