焼き物の町である瀬戸に行ったことはあったのだが、雛飾りを見ながら散策することに。
無風庵
天保雛の特別展示を観に行った。
さすが陶器の街。近くには
窯垣のあるお宅があった。
商店街には、お店それぞれの雛人形が飾ってあった。
瀬戸末広亭
呉服屋さんの明治のお雛様
メーテレの朝のローカル番組で
小宮悦子さんが紹介してくれたと
おっしゃっていたのだが、ついうっかり
その放送は見忘れてしまった・・・
無風庵
天保雛の特別展示を観に行った。
1750年代のもので、天保雛としては最大級
さすが陶器の街。近くには
窯垣のあるお宅があった。
駐車場の塀の上にも
色々なオブジェがあったり。
色々なオブジェがあったり。
商店街には、お店それぞれの雛人形が飾ってあった。
瀬戸末広亭
呉服屋さんの明治のお雛様
メーテレの朝のローカル番組で
小宮悦子さんが紹介してくれたと
おっしゃっていたのだが、ついうっかり
その放送は見忘れてしまった・・・
水野半次郎家の江戸時代の雛人形
水野家は、江戸時代から続く本業窯で、
唯一今も本業窯を名乗る窯元。現在は7代目。
水野家は、江戸時代から続く本業窯で、
唯一今も本業窯を名乗る窯元。現在は7代目。
伊藤伊平家の明治・大正時代の雛人形
伊平家は、江戸末期の古陶園で、
現在は瀬戸染付研究所。
タナイタ、ツク、エンゴロなどの窯道具を組み上げた石垣や塀がある小路を散策。
蝋梅があちこちで満開に
なっていて、芳しい香りを
放っていた。
伊平家は、江戸末期の古陶園で、
現在は瀬戸染付研究所。
窯垣の小径
タナイタ、ツク、エンゴロなどの窯道具を組み上げた石垣や塀がある小路を散策。
蝋梅があちこちで満開に
なっていて、芳しい香りを
放っていた。
瀬戸本業窯
瀬戸には明治11年の往時には300以上の窯があり、洞地区だけで約150もの窯があった。江戸時代後期から陶器の本業製品を焼く窯としてこの登り釜が使用され、磁器は丸窯が使用されていた。
一室は間口が2メートルで奥行は20メートル。年に3~4回は火入れをして焼いており、職人さんは多い時で1日に300~400もの製品を作る為にロクロを回していて、昭和54年まで使われていた。
本業窯で現存しているものは、一里塚の本業窯とこの窯の2基のみ。
一室は間口が2メートルで奥行は20メートル。年に3~4回は火入れをして焼いており、職人さんは多い時で1日に300~400もの製品を作る為にロクロを回していて、昭和54年まで使われていた。
本業窯で現存しているものは、一里塚の本業窯とこの窯の2基のみ。
すり鉢やかめなどの大型の陶器製品である
本業焼きを焼く為の連房式の登り窯。
本業焼きを焼く為の連房式の登り窯。
そして瀬戸のお雛様として有名
「ひなミッド」を観に。
「ひなミッド」を観に。
高さ4メートル12段のピラミッド型の雛壇には、1018体の陶磁器やガラスで出来た創作雛が並んでいる。
展示されている人形は団体だったり個人による製作のもの。
展示されている人形は団体だったり個人による製作のもの。
上から見ると
さしずめ雛人形の曼荼羅?
さしずめ雛人形の曼荼羅?
面白かったのは、展示されている瀬戸蔵という建物の構造。
吹き抜けのホールをぐるっと螺旋階段で4階まで上がっていく構造になっていて、NYのフランク・ロイド・ライト設計のグッゲンハイム美術館に似ているなぁと。グッゲンハイム美術館の内部の様子は こちら
吹き抜けのホールをぐるっと螺旋階段で4階まで上がっていく構造になっていて、NYのフランク・ロイド・ライト設計のグッゲンハイム美術館に似ているなぁと。グッゲンハイム美術館の内部の様子は こちら
以下は昨年の記事内容だが備忘録として:
雛祭りの起源&変遷
古代中国において三月の最初の巳(み)の日に水辺に出て穢れや災いを祓う行事が起源と考えられ、7世紀にわが国にもたらされ上巳(じょうし)の節供として3月3日に行われるようになった。
平安時代には宮廷の年中行事として定着し、この日に曲水の宴を催したり、桃酒を飲んだ。
また自分の罪や穢れを、息を吹きかけたり身肌にすりつけて人形に託し、水辺に流す風習がわが国の俗信仰として古代からあり、これとは別に『源氏物語』をはじめとする王朝時代の文学作品の中には、幼い子どもたちの遊びに用いられた人形を「ひいな」と呼んでいた。これらの風習が何時の頃からかは明らかではないが、3月3日の雛祭りとなったと考えられている。
江戸時代になると、次第に雛祭りは盛んになっていき、今日みられるような雛祭りの形式は、江戸時代の初頃に形成された。
江戸城大奥での雛祭りでは、段を設けず畳の上に毛氈を敷いて雛人形を並べる平飾りであったと記されている。さらに大奥に仕える者の親戚縁者にあたる人々も、雛飾りの参観を許されていた。この行事は「雛拝見」とよばれ、幕末まで続いた。
13代将軍家定の頃になると、大奥では将軍の夫人である御台所(みだいどころ)のお雛さまは、対面所、休息間をはじめとする3ヶ所に飾られていたと伝えられ、飾り付けも平飾りから段飾りへと変化を遂げていった。
武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。
時期だが、和暦(太陰太陽暦)の3月の節句(上巳)である3月3日(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。しかし東北や北陸など積雪寒冷地など一部では引き続き旧暦3月3日に祝うか、新暦4月3日に祝う。
呼称
本来「内裏雛」とは雛人形の男雛と女雛の一対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤りは童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から一般化している。
雛人形の男女の並びについて
私の雛人形やそれにまつわる掛け軸などは京都の層祖母、祖母、母から伝わるものなのだが、いずれも必ず男雛が向かって右、女雛が左で、普通そうなのだと思っていた。
しかし、東京やテレビに映し出されるもののほとんどがその逆。その違いは京都だからなのか調べてみた。
古来の日本文化では、男性は向かって右、女性は向かって左とされてきたが、それは陰陽説に基づいているためで、向かって右が陽の男性、左が陰の女性となっている。
現在でも京都を中心に関西地方では、今でも向かって右が男雛、向かって左が女雛が主流だが、それ以外の地域では、向かって左が男雛、向かって右が女雛となっている地域が多いもよう。
向かって左が男雛、向かって右が女雛というスタイルは、昭和初期頃から東京を中心に広まった。
その理由としては、東京の雛人形業界が昭和天皇の即位礼に倣ったことが発祥とか、文明開化以後の西洋化(西洋は向かって男左・女右)が影響しているなど諸説あり、はっきりわからないのだとか。
ところが、不思議なのは男雛と女雛以外の並べ方のルールは変わっていないこと。
全て陰陽道に従い、「左近の桜、右近の橘」、三人官女(左から加銚子、三宝・京式は島台、長柄銚子)、五人囃子(左から太鼓、大鼓、小鼓、笛、謡)、随身(左が若い右大臣、右が老人の左大臣)、仕丁(左から怒、泣、笑)となる。
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