エルミタージュ美術館展の その1 からの続き。
イメージ 1

4.19世紀 
ロマン派からポスト印象派まで 進化する世紀


ウジェーヌ・ドラクロワ 「馬に鞍をおくアラブ人」 1855年
34歳のドラクロワは、モロッコなどに使節団で訪れた。
ヨーロッパ人としてはアフリカなど異質だが新鮮なものとして映った。
タッチが粗く、鞍の赤い部分と草原の緑の補色関係を
置くことで対比として強くなる色の解放をしている。

イメージ 2




フランツ・サファー・ヴィンターハルター 
「女帝マリア・アレクサンドロヴナの肖像」 
1857年
「エリーザベトの肖像」を描いた画家。
ロシア皇帝アレクサンドル2世の妻であるマリア・
アレクサンドロヴナはドイツ人で、14歳で嫁いだ。
バレエなどで有名なマリインスキー劇場を造った。
夫が浮気ばかりで不幸で、真珠が涙のよう。
身体も丈夫でないはかなげさが表現されている。




イメージ 11ジャン・レオン・ジェローム
「仮面舞踏会後の決闘」 1857年
ジェロームはアカデミーの大御所だったので、サロンの展覧会に応募してくる印象派は絵ではないとして落選させていたが、印象派が人気となるとジェロームは全否定された。
この絵は舞台のワンシーンのようなので、この1枚から舞台が作られたぐらい。
ピエロは、それまでは愚かで純粋で笑われ者と言う意味だったが、仮面の背後に悲しみがあるというピエロ像がこの時代から出て来た。ピエロは恋と青春を象徴し、殺される。
当時は上流階級で決闘が良く行われ、ホテルにピストルが2丁備えられているぐらいで、マネ、ヘンデル、ビスマルクなども決闘していた。

イメージ 12
レオン・ボナ
「アカバの族長たち(アラビア・ペトラエア)」

1872年頃
まるで写真のような奥行。
平山郁夫?と思えるような。。。

イメージ 13








ジェイムズ・ティソ 「廃墟(内なる声)」 1885年
1871年に当時の政府に反対したパリ民衆の革命を起こした
パリ・コミューンの人達にキリストがよりそっている。
パリ・コミューンには、クールベやティソも参加した。
キリストの周りには聖なる光が描かれ、新しいタイプの宗教画。





イメージ 14

ジュール・ルフェーブル 
「洞窟のマグダラのマリア」
 1876年頃
自堕落でふしだらで街の女として生活していたマリアを描くには、ロングヘアーで表す。
裸婦はキリスト教的にはダメだが、彼女を描くことで宗教画の口実となっていた。男性の視線を意識し誘惑している目線なので、フェミニストに嫌われた作品でもある。クールベなどが活躍していた時代なので、キリスト教の衰退もあり、時代錯誤的な作品でもある。

イメージ 15


アルフレッド・シスレー 
「ヴィルンーブ・ラ・ガレンヌ風景」
 1872年
筆蝕分割(パレットで色を混ぜない)手法。
地味目で自然の風景画を描き続けた。
生まれ・育ちはフランスだが、イギリス人。
両脇に樹を配置している。
セザンヌもやった手法。


イメージ 16



ピエール・オーギュスト・ルノワール 
「黒い服を着た婦人」
 1876年
自然の明るい光を追求した印象派の画家たちは、
パレットから黒を追放したといわれるが、ルノワール
(1841-1919)は例外で、黒い服であることで
白い肌を引き立たせ、瞳に白い色を入れることで優しさを。
イヤリングや髪留めがキラキラして綺麗だった。


イメージ 17

クロード・モネ
「霧のウォータールー橋」 1903年
視点も構図も固定して、刻々と移り変わる
自然を何枚ものキャンヴァスに記録する
連作をモネが始めた。
ロンドンシリーズは40~50点あるが、
霧のもたらす光の効果を追求している。
完成したのは全てジヴェルニーのアトリエで、
モネの狙いは自然の一瞬の記録よりも、
連作として展示した際の全体の絵画的な
効果の方に置かれていた。

イメージ 18
ポール・セザンヌ
「カーテンのある静物」 
1894頃-1895年
セザンヌの傑作中の傑作。
瞬間の印象を画面に定着するのではなく、絵画空間を構築する為に、静物という他の印象派の画家があまり取り上げることのなかったジャンルを扱った。
果物などの質感を表現するのが目的ではなく、静物は色と形で画面を構成する為にしか過ぎない。
視点の高さが異なり、水差しは横から、果物は上からと、遠近法が崩れているが、ピカソやブラックなどに影響を与えた。

イメージ 3



モーリス・ドニ 「母と子」 1897年



イメージ 4






ポール・シニャック 「マルセイユ港」1906-1907年
印象派が即興的に描いたが、スーラやシニャックは色彩科学や色彩理論を大事にし、
即興的なタッチではなくきちんと置く点描の手法となった。パレットで色を混ぜて濁る色を使う
ことは不可。彼らを認めるかどうかで印象派がもめたた、マティスが影響を受けた。
フォーヴィスムへと繋がる。

イメージ 5
アンリ・ルソー
「ポルト・ド・ヴァンヴから見た市壁」
 1909年
税関吏だったルソーは、ポルト・ド・ヴァンヴ
(ヴァンヴ門)はパリの南の外れにあった
かつての城壁の門の一つで、ここで物品税の
徴収を行っていた。
ピカソが、ルソーを囲む集まりを開くなど
早くからルソーをかっていた。
パリで未だ認められていなかったが、すでに
ロシアでシチューキンに買われていた晩年の作。

イメージ 6



キース・ヴァン・ドンゲン 「リュシーとその伴侶」 1911年
踊り子のリュシーと彼女の伴侶の肖像。
ドンゲンは、竹久夢二に影響を与えた。
藤田嗣治やドンゲンなどが、エコール・ド・パリと
言われていた。

イメージ 7






アンドレ・ドラン 「港」 1905年
フォーヴィスム=野獣派。
色を開放した、好きな色で塗って構わない、
説明しつくさない手法。
南フランスの光を表現している。
カンヴァスの地の色を残す描き方。


イメージ 8
アンリ・マティス 「少女とチューリップ」 1910年
単純な背景は、浮世絵からの影響もある。
抽象画への足掛かり的な作品。

イメージ 9


パブロ・ピカソ
「マンドリンを弾く女」
1909年
セザンヌから影響を受け
描く対象の立体的なものを
バラバラに分解し平面上で
構成し直すキュービズム。
アフリカ彫刻の影響を受けており
当時の趣味に反するもの。
楽器を描いたのは初めて。


イメージ 10



















アンリ・マティス 「赤い部屋(赤のハーモニー)」 
1908年 
赤と上を這う青い植物文様の2つの色の鋭い対比が生み出す緊張感と躍動感を、画面中央を水平に横切る果物の黄色が和らげ支えている構図。壁の模様とテーブルなどに遠近法がない。
もとは青緑色が一面に塗られていが、上から赤を塗った為、周囲に緑の線が残っている。いつ塗り替えたのか不明だが、マティスは装飾性を求めて赤で成功したと言っている。セザンヌの影響を受けて果物に影がなかったり、視点が色々な所から描かれていたり。
富豪でバイヤーのシチューキン宅のダイニングを飾る為に描かれたもの。


子供用のプログラムもあり、親子で楽しめるように工夫されていた。
小さな赤ちゃんがおられても、芸術鑑賞をされるという意味では素晴らしいことだと思うのだが、結構混んでいる週末にベビーバギーのお客さんが結構いたのには驚いた。
また、絵に近づかないように足元にあるポールを鉄棒に見立てて遊ぼうとしている子供が居て、あわてて係の人が注意をしていたが、ベビーバギーを押しているお母さんは年長のその子供を叱るでもなく係の人に「すみません」の一言のみ。
走って騒いでいる子供を叱っているお母さんも居たが、お互いの声のトーンは普段の通りなので、混み合う美術館の中でもひときは大きく聞こえていたりするが、係の人はなすすべもなく。。。
子供の頃から芸術鑑賞をさせてもらえる素地があるというのは素晴らしいことで、わざわざ連れて行こうと思われるお母さん達も偉いと思うのだが、鑑賞する第三者の立場としては、いささか驚くこととなった。