下諏訪の毒沢鉱泉の宿の林に置かれた2個の巣箱。
前日はその下の方の巣箱から顔だけちょこんと出してくれたムササビ。この日の朝は、もう一方の巣箱の上にムササビが登場していて、しばらく見ていると、もう片方の巣箱に跳び移り、おはよ~とでも言わんばかりに挨拶をした後、再び自分の巣箱側にジャンプして戻り、巣箱よりも高い位置にいきなり駆け上がると、そこから両手両足を広げて滑空。
あいにく未だそれほど明るくなく、コンデジしか持っていなかったので、あまりの素早さにその動きの写真が撮れなかったのが残念だが、動物園以外で初めてムササビの滑空が見られた。
お宿の方に聞けば、巣箱を2個、樹につけておいただけだが、野生のムササビが勝手に来て住みだしたそうで、この日の朝に見た方が親で、前日顔だけ出してくれた方が子供とのこと。
前日見た子供はこちら
朝風呂の後に朝食を。これまたいたってシンプル。
チェックアウトして、お宿の近くにある 「御柱木落し坂」 へ。
諏訪大社の御柱祭は、7年目の申(さる)・寅年に行われる奇祭。モミの巨木を奥山から切り出し、社の四隅に建てるのだが、山から引き出す「山出し祭」が御柱年の4月、町内を曳行して建立する「里引き祭」が5月に行われる。曳行途中、木落し坂と呼ぶ急坂で、御柱を引き落とすのが下社山出し祭での最高の見せ場となっている。男意気に駆られる若者達が御柱にまたがったり群がりながら、100メートル余り、傾斜度45度近い木落し坂を頂上から一気に引き落とす。木落し坂での木落しは、下社春宮・秋宮の御柱8本を3日に渡って行うのだそう。
そう言えば、3年前行われた時に知人が観に来ていたのだが、道をはさんだ反対側の観覧席からでは遠かったと言っていたが、観光客の数に対し、なるほど狭い場所なので、確かに見るのは大変かもと納得。
横から坂を見たところ
下から坂を見上げたところ
現在、坂はロープが張られて立ち入り禁止になっているが、動物たちはお構いなし。
ニホンカモシカ?とも思われる足跡もたくさんついていた。
海抜759メートル、周囲16キロ、水深7メートルの淡水湖。
以前、祖母などと共に家族旅行で上諏訪に泊まった時に、諏訪大社にも行ったのだが、久しぶりに下社春宮と秋宮に行くことにした。
諏訪大社は、4か所に分かれている。茅野市にある上社前宮、諏訪市にある本宮、下諏訪町の下社春宮、同じく下諏訪町の秋宮。
諏訪大社 下社春宮
諏訪大社下社の最初の鎮座地。幣拝殿、片拝殿は大隅流の伊藤長左衛門の作で国の重要文化財。
神楽殿
お神楽を奉納する為の建物で、落成は江戸前期の天和年間(1681~1684年)のもの。
立派な幣拝殿
社の四隅に建てられている御柱の一本。
この春宮一之御柱は長さ17メートル余り、直径1メートル余りのモミの木で、霧ヶ峰高原に続く東俣国有林で伐採され、数千人の氏子によって曳行されたもの。
万治の石仏
春宮の脇を流れる砥川沿いの小径に万治3年(1660年)より鎮座している石仏。伝説によると、春宮に石の大鳥居を造る時、石にノミを入れたところ、その部分から血が流れ出したので石工達は恐れて仕事をやめた。すると、石工の夢枕に現在の茅野市に良い石材があるとのお告げを受け、無事に鳥居を完成することが出来た。石工達が、その石に阿弥陀如来を祀って記念としたのが始まり。
高さ2メートル余の半球状の自然石に仏頭を乗せたもので、何度か頭は落ちたことがあるとか。
写真を撮って見比べると、その頭の位置が徐々に上に伸びているようだと言われ、調べてみたら、頭を固定する為に通したパイプ状のものに水が入り、凍って膨張したことが原因だったのだそう。
石仏に礼をしてから願い事を願いつつその周りを3周すれば叶うと言われていて、多くの人がぐるぐると廻っていた。この石仏のお顔を横から撮った写真が観光のポスターにも使われていて、「ここはイースター島? ここは渋谷? いやここは下諏訪」 みたいなことが書かれていて可笑しかった。(キャッチコピーの記憶は曖昧だが)
諏訪大社 秋宮
幣拝殿を中心に、その左右に片拝殿が並ぶ。安永6年(1777年)に起工し4年後に落成。諏訪出身の立川四郎富棟の代表作で彫刻が見事。軒周りその他に彫刻が多く、華やかなのは当時の流行で、全て素木の生地を生かしている。幣拝殿、片拝殿は神楽殿とともに、重要文化財。
二重楼門造りと呼ばれ、二階は跳勾欄(先の反った欄干)が特徴。
この後、諏訪湖畔に集まるコハクチョウや鴨達を観に行った。その様子は追って。
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