祇園祭の山鉾巡行 その1 から その2 の続き。

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船鉾(ふねほこ)
神功皇后をめぐる説話によって鉾全体を船の形にしてある。
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橋弁慶山
弁慶と牛若丸が五条大橋で戦う姿で、牛若丸は橋の欄干の擬宝珠の上に下駄で立っており、下駄金具一本で支えている。人形には永禄6年(1563年)、天文丁酉(1537年)の銘がある。
この山から以降は、後祭の巡行となり、橋弁慶山は籤とらずで、後祭巡行列の先頭と決まっている。

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北観音山
文和2年(1353年)創建。飾り屋根を付けたのは天保4年(1833年)。巡行時には、柳の枝をさしていて、観音懺法に因むもの。
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黒主山

歌人の大伴黒主が桜の花を眺めている姿。ご神体は寛政元年(1789年)の作。人形の衣装は、延宝3年(1675年)や正徳元年(1711年)の銘がある。

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浄妙山
三井寺の僧兵筒井浄妙と一来法師の奮戦の時に、一来法師が浄妙の頭上を飛び越える一瞬を表している。浄妙が来ている鎧は室町時代の作で重要文化財。

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役行者山(えんのぎょうじゃやま)
ご神体は、役行者、一言主神、葛城神の三体。

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南観音山
本尊の楊柳観音像は鎌倉時代の坐像だが、天明の大火で頭胸部だけが残り、他は江戸時代のもの。
巡行には使用されていないが、日本最古のインド更紗(1684年)なども保存している。

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鈴鹿山
伊勢の鈴鹿で、人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現を女性の姿であらわしている。山に立つ松には鳥居、松、木立と宝珠を描いた絵馬がつけられおり、巡行後には護符として授与される。

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八幡山
町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。小祠は天明年間(1781~1788年)の作で、総金箔。

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鯉山
中国の龍門の滝をのぼる鯉をあらわしている。前懸、2枚の胴懸、2枚の水引、見送は、16世紀に
ベルギー・ブラッセルで製作された1枚の毛綴を裁断して用いたもので、重要文化財に指定されている。

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大船鉾
後祭の籤とらずとしてしんがりを務め、船鉾が出陣船鉾と称されるのに対し、凱旋船鉾と言われて500年以上の歴史があったが、幕末の元治元年(1864年)の蛤御門の変の大火で焼失。ご神体人形などは消失を免れだので、宵山飾りをする「居祭」を行ってきたが、今年から神前を唐櫃に奉安し、囃子を伴う唐櫃巡行として参加している。画像は唐櫃ではなく、囃子。


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どこの鉾町でいただいたのか失念してしまったが絵葉書を配っておられたので頂いた。
上: 太子山見送掛飾金具(日月鳥兎文)
左下: 船鉾格天井(金地花の丸)
右下: 月鉾 原画 三輪晃久

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御池通りで巡行を観ていたのだが、用事があったので、途中で河原町通りをさがりながら巡行を眺めていたが、結局、建物から見るなどもしつつ、33番目の最後の大船鉾まで全てを見ることが出来た。
一昨年見た時は3連休と山鉾巡行の日程が重なったので物凄い人だったが、今年は平日ということもあり、14万人とのこと。因みに、気温は33.5度。

聞くところによると、来年からは、昭和40年(1964年)以降行われていない後祭の単独巡行を2014年に復活させるかも知れないとのこと。
かつて山鉾巡行は、八坂神社の神輿渡御(みこしとぎょ)に合わせて17日と24日の2度あったが、「信仰か、観光か」 の論争を経て、1966年に7月17日に一本化され、現在に至っている。幕末に焼失するまで後祭のしんがりだった大船鉾の巡行復帰の計画に合わせ、神輿の露払いという、祭り本来の姿に返すという目的があると同時に、4時間半かかる巡行の時間を短縮し、宵々々山から巡行までの4日間で約100万人が集中する観光客の混雑回避も狙う目的があるのだそう。
ただし、本来の後祭の10基だけでは、観光客が見込めないという意見などもあって、未だ決定されていないとのこと。
もしかしたら、33基を一同に見られる機会は今年が最後だったのかも?と思うとラッキーだった。

また、この日の夜には、神輿渡御も見ることが出来たので、その様子は追って。