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平日朝のサントンは渋滞が凄い。

我々は郊外に向かったので、渋滞とは逆方向になったが、郊外の豪邸街からは、中心に通う人達の通勤ラッシュ。

かつてサントン郊外に住んでいた知人は、混んでいなければ30分ほどで行ける道を毎朝片道1時間半かけて通勤していたと言っていた。


リリースリーフ Liliesleaf
ヨハネスブルグ在住の南ア人に何処がお勧めかと聞いたところ、挙げてくださったのが、リリースリーフ。
かつて、マンデラさんなどSACP(South African Communist Party)のメンバーが地下活動をしていた拠点。

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2008年に一般公開され、今はとても綺麗に整備されて解説等がつけられている。






10分ちょっとの解説フィルムが上映され、南アのアパルトヘイトに関する歴史のダイジェストがわかるようになっている。
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ソ連から資金が出て、当時非合法だった南ア共産党員に1957年になったGoldreichという白人一家がこの農場を1961年8月から、1963年7月11日に警察が踏み込むまで、一か月100ランドで借りていた。


見た目は、黒人の使用人を持つ良くある南アの農場に過ぎなかったが、ここではアパルトヘイト撤廃に向けての地下活動の拠点として、マンデラさんも、農場の作業員が着る青いつなぎを着てカモフラージュして住んでいた。広い農場では、実際には、マンデラさんも含め、大勢が射撃の練習など武装活動の準備をしていた。後に、警察が押収したライフルは、オークションで一丁がたったの7ランドだったとか。

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活動として、冊子をここで印刷したり、自由をよびかけるラジオ放送も行っていた。


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石炭倉庫。
実は、重要な機密書類などの倉庫だった。



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当時、警察や警察犬が黒人の身分証の携帯などを厳しくチェック。彼らはチーターと呼ばれて恐れられていたそうで、その警察の制服なども展示されていた。




警察は、実際は、首謀者の一人であるウオルター・シスル Walter Sisulu を捕まえに来たのだが、活動家のリーダー達全員を一網打尽にすることとなり、18名が逮捕され、そのうち8名がリボニア裁判で終身刑を受けることになる。
リボニア裁判(The Rivonia Trial)とは、1963年から1964年にかけて、10名のアフリカ民族会議(ANC; African National Congress)指導者に対する、アパルトヘイト制度に対する暴力革命を目指すサボタージュを扇動したとの罪状で行われた裁判のこと。イメージ 7



ヘンドリック・フレンシュ・フルウールト
オランダアムステルダム生まれのアフリカーナー。
アパルトヘイトの立役者。1958年から殺される
1966年まで南アの大統領だった。
史上最悪な悪代官風に見えてしまうのは
私だけだろうか。。。




それ以降、「リボニア Rivonia」は自由を求めた反アパルトヘイト活動の聖地としてあげられるようになった。


見学後、帰宅するべく、7時間のドライブを。

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空をとても近く感じる。

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何の作物の葉の色か
良く分からなかったが、
とても綺麗な黄色で
道沿いにはコスモス。






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遠くに、これまた一面の黄色が広がっている。

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ひまわり畑だった。南アは、世界でヒマワリの生産が12番目とのこと。


しばらく走ると、、、眼下に虹のアーチが!
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道路が下り坂となり、徐々に高度が下がってくると、虹の見え方も変わって来た。








また、しばらくすると、2つ目の虹が登場!
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この後は、下りの山道で雨や霧に出遭って大変なドライブとなったが、変わりやすいお天気は南アらしいと言えば南アらしい。2つも虹が観られて良かったかなと。駆け足の2泊3日の小旅行だったが、有意義なものとなった。