モザンビーク島で迎えた朝。

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対岸のモザンビーク本土が見える。

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ホテルの朝食は、クレープなども付き、
色々と楽しめた。






半日の島内観光に。
モザンビーク島は、長さ2.5キロ、幅0.5キロの細長い島。
モザンビーク島の人口は約5000人で、現在はイスラム教徒がそのほとんど。
モザンビーク全体の公用語はポルトガル語。色々な民族が居るので、異民族間ではポルトガル語で話すことが多い。モザンビーク島の地元の人達が話す言葉はマクア語。スワヒリ語にアラビア語とポルトガル語が混ざったような言葉。中学生になると英語を習い始めるものの、他の授業は全てポルトガル語のみによる教育なので、各民族の言葉は家庭などで伝播されている状態。

まずは島の北部にあるストーンタウン Stone Town を廻る。

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砦跡。19世紀の錨が置かれていた。


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当時の灯台。
18世紀の税関。



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左が現在の警察署、右が以前の警察署


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1952年に、上記古い警察署の横の建物との道幅やアーチによる建築物をポルトガルが造った。









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現在は博物館となっている サンパウロ宮殿 Palace & chapel of Sao Paulo
1610年からポルトガルの宮殿だったが、1975年からは博物館となっている。

この像は、1498年にやって来たヴァスコダ・ガマだが、ユネスコがモザンビーク島を世界遺産に指定するまでは、像が倒され、宮殿にも落書きがあるような状態だったとのこと。

当時は、22人の使用人がこの宮殿に従事していた。






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内部の家具調度や宝物が非常に良く保存されていて、全てオリジナル。アフリカ諸国のほとんどのこう言った宮殿の財宝などは全て植民地としていた本国に持ち帰られ、レプリカなどが残っているだけな事が多いのだが、このモザンビーク島はポルトガルの植民地ではなく一地区として扱われた為、今現在も当時の物が残っていて非常に展示品に見応えがあった。特に、当時ポルトガル領だったインドのゴアから運ばれて来た家具や、マカオからの貿易品、海で難破した船の積み荷にあった中国製の陶器などが非常にたくさんあった。撮影禁止なのが非常に残念。
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宮殿内には教会もあり、ここは撮影可能。

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後方の席に女性が座り、男性のエリアとは分けられていたとのこと。

キリスト教は性別に関係なく一緒に祈り、イスラム教徒は男女祈る場所が違うと思っていたのだが、当時のここの教会では分けていた。








サン・セバスチャン要塞 Fort of Sao Sebastiao

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要塞の壁は、花崗岩とサンゴで造られている。

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敵が来た時には、上に火をつけて、 
のろしのように合図にした。



下のアーチ部分には火をつけ、上の四角い小窓は
伝書鳩の穴となっている。



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最初は250人ほどの兵士が駐屯していたが、1558年~1620年に2度オランダが攻めて来たことから、2000人のポルトガル兵士がここで寝泊まりしていた。



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南半球に現存する最古のヨーロッパ建築のノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂。1522年造。


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ここには、日本からの天正遣欧少年使節の4人の日本人が、
ヨーロッパから日本に戻る際の1586年9月にモザンビーク島に
到着し、季節風の流れが変わるのを待つ為、半年間逗留していた。


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大きな貯水槽があり、未だに雨水が貯まっていた。
6メートル×25メートルの大きさがある。
ここの水源は、この雨水と井戸水とのこと。






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要塞には19世紀の24門が備えてある。要塞の前の海岸から、多くの奴隷がブラジルなどに売られていった。
また、要塞内にはカジノもあったとか。やはりマカオと言い、ポルトガル人は賭け事が好きなのかなと。



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もう少しストーンタウン内を巡る。

かつてのフランス大使館。
今は一般人の家となっている。


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ポルトガルの有名な詩人の像。

病院




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かつては砦だったが、1969年に教会に改築されたサンタン教会。島民はかつてはキリスト教徒だったものの今はイスラム教徒がほとんど。本土にこの教会の宗派の教会がない為、わざわざその信者の人達が来ている。


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潮の干満の差で歩いて行ける小さなサン・ロレンツォ島ですら1695~1707年まで要塞となっていた。






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我々も渡って来た、モザンビーク本土とを結ぶ長さ3キロの橋。1969年に造られた。
この後、島の南部、地元の人達が昔から住むマクティタウン Makuti Town  を見学。その様子は<3>で。