マダン Madang で迎えた朝。
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ホテルの敷地内を散歩。
クロサギ Pacific Reef-Egret, Egretta sacra、や シギの種類(詳しくは不明)
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オウギバト Victoria crowned pigeon, Goura victoria 羽が切ってあり、庭に放し飼いにされていた。
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ムクドリ科のナキカラスモドキの幼鳥?
DSC_0511 ムクドリ科のナキカラスモドキなどの幼鳥かな

マダンの町の先(地図での赤い部分やその周囲)はずっとサンゴ礁の湾となっていて、島々が点在し、絶好のダイビングスポットなのだそう。ダイビングなど全く出来ない我々は、マダン湾のクルーズを。ダイビング用のボートに乗るのも初めて(笑)
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マダン沖の島々から出勤するボートの人達。学校に行くのもこうやってボートに乗って登校するのだそう。カメラを向けても嫌な顔をせずに微笑み返してくれる。西アフリカのベナン共和国でも同じような渡しのボートがあったが、撮ると嫌がって女性は特に顔を隠すなどしていた(その様子は こちら)のとは大違い。向かい側にあるクランケット島などからの行き来で片道1キナ(約32円)。因みにクランケット島には電気がある。
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ちょうど飛行機が降りて来た。
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今はもう稼働していないが、ココナッツのプランテーションのドックだった所。
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中国のニッケル鉱山の廃棄物が海に直接流されてしまった為に今はマダンの魚市場は閉鎖されており、こんなに漁場があるのに魚は輸入しているのだそう。

シアー Siar 島と言う島に立ち寄ることに。島民は80名ほどとのこと。上記の地図の黒い←の島。
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セゴヤシなる木の葉で屋根を葺き、ココナッツを食べ、茎は壁になるのだそう。
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もともと島には、4~5世代前から人が住み出したが、人口が増えて来たので、陸へ移住してシア村を造ったのだそう。こんな小舟での漁業が生業。どうやら島の人達は今もこの辺りで獲れた魚を食べているみたいだった💦 飲み水は井戸水。ちょっと塩っぽいらしいが。
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第二次世界大戦の時に、日本軍がやって来て、島民を奴隷のように使って造らせた石垣や防空壕が今も残っている。ニューギニア島の南側に位置する首都のポートモレスビーはオーストラリア軍が抑えていたが、北側のマダンはラバウルにも近く、日本軍が要衝として占領していた為か、島を案内してくれたおじさんは、「slave 奴隷」と言う言葉を使っていた。
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撃墜された飛行機の破片が今もある。昔は原型をとどめていたそうだが、島民が飛行機本体の金属部分を磨いて売ったり、波によって徐々に壊れていったのだそう。
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こんな小さな島でも、ちゃんと教会があった。太陽光電池で灯りもつく。ルター派の教会で、神父は陸側からやって来るのだそう。
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ラウロと言う木には、黄色い花がついていた。実を食べる。紫の実の物はガリップと言う。
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皆が愛して止まない?ビートルナッツの緑の実がなっていた。島には何本もの木が植えてあり、子供達が登って取るのだそう。あまり見かけなかったのだが、ここでは鶏も。
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島をおいとまし、再びボートに乗って湾を巡る。おばあちゃんがお出かけ。にこやかに、そして上手に漕いでいく。
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この湾の海底には、第二次世界大戦で撃墜された飛行機が今も原型をとどめた状態で横たわっていて、ダイビングスポットになっている。墜落した時に、副操縦士は島側に泳いで逃げて日本軍に捕まり殺されたが、パイロットは陸地側まで泳ぎ、地元の人達に助けられたのだそう。

アジサシが何羽も飛んでいた。
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カリボボ Kalibobo の灯台は、ろうそくをモチーフにしており、第二次世界大戦で亡くなったオーストラリア兵とイギリス兵と地元の人達の慰霊の碑がある。横にある巨木は樹齢300年のガジュマルの樹。この辺りは水深60~70メートルだが、灯台の外側は水深100~200メートルにもなる。
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ビーチになっている所は少なく、ピッグ Pig アイランドなど。サンゴ礁が広がるが、砂浜はブダイの糞がビーチを作っているのだそう。

ホテルに戻って昼食を。
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本日のお勧めとのことで、マグロのグリルと、シーフードの炒め物を。 いける。
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午後からは、マダン博物館に行った後、ハリク村で彼らのシンシン(民族舞踏)を見学。その様子は<11>で。