横浜美術館で開催されている澄川喜一先生の「そりとむくり」展で、同じく彫刻家で東京藝術大学の名誉教授であり澄川先生の教え子でもある深井隆先生との記念対談が行われたので、併せて見に行った。
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まずは対談を。本来、レクチャーホールで定員220名で計画されていたが、新型コロナウイルス拡大防止の為に参加者は80名と規模を縮小して開催された。
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美術館のキュレーターの方の司会進行により、彫刻家であり教育者の澄川先生の若かりし頃からの話を、深井隆先生と共に。

島根出身の澄川先生は、岩国の工業学校に終戦の年に入り、物づくりをしたいと思われた。錦帯橋があまりに美しいので調べ始めたのが始まりで、先生の原点はこの橋かも知れないとのこと。錦帯橋は、場所によって使われる木が異なり、裏は力がかかるので松を、見える側はヒノキが使われている。しかし、1950年の台風の時に洪水で錦帯橋は流されてしまう。壊れてしまう様も衝撃的で、愛する人が逃げて行ったような気がして泣いたし、今もそう感じる、とのこと。
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澄川先生が東京芸大に入った時は、彫刻には18人が入ったが、10人が塑像、8人が木彫を選択。澄川先生は塑像の菊池一雄先生を選んだ。平櫛田中先生は、澄川先生に、技術は真似ても良いが人の真似はするなと仰られ、今になっても記憶しているとのこと。4年間は具象をしろと菊池先生からアドバイスを受け、信用して制作すると師匠にそっくりな真似になってしまう。当時、師匠の真似をするのが美術学校だった。日本画の前田青邨先生などもおられた時代。

30歳の時に一度東京芸大を離れられるも、1967年に芸大講師に戻られ、後に学長就任。現在は名誉教授。
澄川先生が入学された頃の芸大には、暗黙の定年制があったものの、公立の音楽とアートの芸大には定年は特になく、澄川先生が大学一年生の時に107歳の先生が退官されると言うことも。平櫛田中先生は80歳でも学校におられたぐらい。当時は、塑像(人体の像)の菊池一雄先生、舟越保武先生ばかりで、木彫や金属彫刻がない時代。
大学内に彫刻専門の棟を造るにあたり、二階建ての計画で実施設計に入るところだったが、三階にするように澄川先生達が主張。一階は石彫・木彫・金属・テラコッタなど、二階は塑像、三階は学生のフロアとした。しかし、一階には当時3人ぐらいの学生しかおらず、大学の事務の人がバドミントンしに来たり、ホウキでアイスホッケーごっこもしていた。当時はロダニズムの影響で、新しいことをやりたい人は金属と石だった。茨城の真壁で花崗岩が取れることから、技術を学ぶべく石工の人を講師に呼んだことも。

深井先生は学校に入る前から、金属彫刻がやりたかったのだが、3年生で金属をやったら面白くなく、木彫へ。卒業のノルマは人体の塑像。
澄川先生が、学生の深井先生を教えていた時代は、70年台安保の時代でもあり、老先生方は皆帰ってしまうので、講師の澄川先生が学生と向き合わねばならなかった。深井先生は浪人して2年間予備校にいたので火中にはいなかったが、学内で授業料値上げ反対の垂れ幕があったり、陳列館をロックアウトしたりも。しかしそれでも東大ほどではなかった。

澄川先生が、野外彫刻展に出品されることとなり、一年目は推薦制で、野外で行うきっかけとなった。
仮面・マスクなどの作品を造られ、イサムノグチ氏が評価してくれたのが、何をやって良いのかわからない時期だったので、元気が出たのだそう。初期は、アクリルやノミ跡が残るものを制作。ノミ跡を残すと簡単に出来るが、ノミ跡なしの木そのものを現在は制作している。
仮面に関しては、マリ共和国のドゴンの仮面や彫刻、東京国立博物館にあった古い甲冑にも影響を受けた。
木を生かすのでなく、木で造りたい物を制作していた。四角の柱、特に床柱はそれだけで美しい。アクリルは扱いが難しく値段も高いこともあり、初期だけ。セメントで作ることも試したが一時期。

78年に、そりのあるかたちシリーズを開始。2番目か3番目の作品が、平櫛田中賞を受賞。けやきの良いものが手に入ったので、木の美しさで勝負しようと。曲がっているところをそのまま、使用。蒸したら力は加えず。(画像は産経新聞より)
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深井先生からの質問。76年に、ヨーロッパに半年間行かれていて、何か変わられたなと思ったが、その理由を聞きたかったが恐ろしくて今まで聞けず、今回初めて聞くとのこと。澄川先生曰く、ヨーロッパのものを盗んでやろうと思って行ったが、日本人としてやはり木が好きだと改めて認識したとの回答。

組まないと安定しない木の大きな作品なので、木片を組み上げていく。色々な木の材料を床に並べてデッサンして考える。アトリエにあるクレーンを使い、一人で組み上げていたが、今はもう出来ないとのこと。
展覧会ポスターの作品
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樹齢400年の杉の木を使った作品。
深井先生からの評として、最初のプランから、実際には途中から変えておられる。つける、減らす、などあるが、木と対話しておられると。
澄川先生は、その日によって付けたり減らしたり。大型のものは、重さがかかるので、まず小さい物を先に造ることもあると。

芸大在職中には石も扱っておられ、建築とのコラボもされていた。
スカイツリーのデザイン監修は具体的にどのような事をされたのか?と言う質問に対して:
設計者ではないので、設計者と一緒に、こうやれば綺麗だよ、と。一緒にやるのは面白い。正三角形の場所から、スカイツリーの上部に行くと円柱になるので、見る角度により、そっていく。左右対称に見えるのは、三箇所の角度からだけ。設計者が、五重塔の心柱構造しかないと提案。心柱工法で、美しさと不思議さを出したかった。スカイツリーは以前から足元がシンメトリーじゃないなと思っていたが、なるほどそう言うことだったのかと納得。
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東京湾アクアラインの風の塔をはじめ、海底トンネルを掘り進んだシールドマシンのカッターフェイスなど(その様子は こちら)、全国で120箇所以上の作品がある。以前に米寿のお祝いをしてもらったが、それは好きではない。もう最後という意味らしいが、そんなことはない、と。

現在、深井先生の個展も板橋で行われている。大学を辞める時に、大学美術館で個展をしたが、板橋で新作も横浜美術館と共同で出しておられる。

質疑応答の時間に、芸大の学生さんから「技巧は何処で学ばれたのか?」との質問が。澄川先生曰く、岩国の工業学校にいたが、実技がガスと電気の溶接、鋳物、陶器、木工旋盤、金属旋盤が、役にたった。何でもいじりたかった。既に手慣れていたので、作品造りは怖くなかった。年をとっても、制作をしたくて仕方がないとのこと。わずかな時間だったがお話をさせて頂いたのだが、お年を感じさせない(現在88歳)素敵な方だった。

14時~15時半、途中休憩もなくしっかり1時間半の対談だったが、面白く短く感じた。

その後、展覧会を。先に対談で聞いていたので、より興味深く見ることが出来た。
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撮影可能なエリアが限られていた為、まだまだ作品はあり、楽しめた。一番最後の作品は、ぱっと見た時にカモシカのようなイメージを受けたので私が気に入った作品。色々な木を組み合わせつつ、マッチしていて、下から覗き込むと上や横からでは見えない穴などが開けてあるなど面白い。

使われているさまざまな木のサンプルも置かれていて、それを実際に持ったり出来るコーナーもあり、重さや表面の質感の違いなどを知ることが出来た。
一週間後の29日から全館臨時休館となったので、何とか参加出来て良かったなと。