もともとは1887年創業の東京火災保険、それから色々と名称を変えつつ1944年の合併に伴い安田火災海上、2002年に損害保険ジャパンとなった、らしい。
安田火災海上の時代に、高層ビルにあるゴッホの「ひまわり」を見に行って以来なのだが、いつの間にやら「東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館」になり、そして今回新しくオープンした「SOMPO美術館」となった。・・・ややこしいと感じるのは私だけ?(撮影許可されている4点以外の作品画像はSPICE などHPから)
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5階 四季折々の自然

岸田夏子 左:「桜花」 右:「桜華(おうか)」いずれも1993年 
洋画家の岸田劉生氏の孫で80歳。「麗子像」の麗子さん(48歳で急逝)の娘さんで、東京藝術大学の絵画科油絵専攻。パリにあったアトリエ兼住居の「ラ・リュージュ(蜂の巣)」と言う建物の再現を行った山梨県の清春白樺美術館の館長さんでもある。県の天然記念物となっている「清春の桜」を作品にしている。「桜華」には、洋画にしては珍しく、金箔が貼られており、洋画と日本画がうまく融合している。
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山口華楊「葉桜」1921年 22歳頃 
京都出身の日本画家。17歳で文展に入選。日本画だが、洋画風の陰影の付け方をしている。石膏をデッサンしたり、動物園に足を運んでは写生して、動物画でも有名。京都の画壇で写生を重んじる円山四条派。
この「葉桜」は、京都の円山公園の枝垂れ桜をモチーフにしている。パリのグラン・パレの「日本美術展覧会」に出品した。右下にはアオダイショウが描かれているが、山口氏自身が道端で蛇を捕まえ家に持ち帰って写生した。左下にはアザミの花を描き、アクセントとしている。一般公開は10年ぶり。経年劣化の為、屏風の木枠の劣化で皺が出来たり、虫害もあったが、開館記念にあわせて全面的に修復。ヘビの背や目元に金色や青色が使われていたことがわかった。
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山口華楊「幻化」1979年
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山口華楊「猿」1959年 同じ大きさの巨大な下絵とこの作品とが並べられていて面白かった。
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奥村土牛「朝顔」1935年 とても涼しげですっきり。
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吉田博「興津の富士」1920年代 40歳代頃(画像なし)
駿河湾を描いている。明治生まれで大正・昭和と活躍したが、伝統木版画(浮世絵)の復興と近代化を目指し制作された「新版画」運動にも関わっていた。18歳の時に、小山正太郎の画塾「不同舎」に入門、風景画家としての素養を身に着け、23歳でアメリカに渡り、すぐに水彩画などで個展を開いた。黒田清輝の白馬会に対抗し、主に水彩や版画を制作していたので、この油絵は珍しい。戦後、進駐軍やマッカーサー夫人が訪ねて来るなど、日本よりもアメリカで有名となった作家で、進駐軍が訪ねたのは藤田嗣治とこの吉田博のみ。3年前に、違うビルに保管されていたところ、たまたま発見された作品。

東山魁夷「潮音」1966年 58歳頃 
山陰地方や島根県を取材して描いたもの。皇居新宮殿壁画も東山魁夷が描いているが、その作品を準備している段階で、これを描いたと言われている。
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平山郁夫「ブルーモスクの夜」1976年
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4階 「FACE」グランプリ作品と、東郷青児の代表作(1897~1978年)

「FACE展 損保ジャパン日本興亜美術賞」のグランプリ作品が並ぶ。
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宮里紘規「WALL」2014年  2015年のグランプリ作品 細かく縦に刻んだ紙を手仕事で貼ってある。
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青木恵美子「INFINITY Red」 2016年 2017年のグランプリ作品。アクリル絵の具が花びらのように。
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東郷青児 
東京火災社長の南氏がカレンダーの挿絵に起用したのが縁。美術館が出来た時に、東郷青児が自作など約350展を寄託。1976年に「東郷青児美術館」が開館した際に、200点ほどが寄贈された。
東郷青児は、青山学院中学部を卒業、竹久夢二の千代紙を売る店で手伝いをし、独学で絵を学ぶ。
作曲家の山田耕作(1886~1965年)がヨーロッパから帰国する際にキュビズムの版画などを持ち帰ったことから、ヨーロッパの前衛美術から影響を受けた。
フランスに約7年滞在し、「未来派」を創始したイタリアの詩人マリネッティにも会っている。フランス文学の翻訳も手掛けていた。
私生活は、もともと渡仏前に結婚していたが、帰国後に別の女性と同棲を始め、重婚になると思われるのだが結婚式まで挙げている。その1ヶ月後に別の女性と心中未遂。それを取材に来た宇野千代と同棲を始めた。しかしその後、一緒に心中未遂を図った西崎みつ子と復縁し、最後まで添い遂げた。
晩年でも精力的で、72歳の時にはフランス政府から勲章を授与され、75歳でエジプト・サハラに行ってテント泊を経験したり、79歳で東郷青児美術館が開館、80歳の時に旅先の熊本で心不全により客死。

「パラソルさせる女」1916年 19歳頃 「キュビズム」や、「未来派」を感じさせる作品。二科展で入選し、同時に最高賞の二科賞も受賞。「in Cagnes」=「カーニュにて」と書かれている。
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「超現実派の散歩」1929年 32歳頃 
留学から帰って初めて発表した作品。超現実派(シュールレアリスム)の作品。1929年の二科展に出品。当時の二科展では、古賀春江の「海」などと共に、シュールレアリスムとして注目された。
少女が月を捕まえようとしている作品なのだが、二科展に出品した時には、アンダーヘアーが描かれていた為に公開禁止になり、修正して公開された。
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この作品が、SOMPO美術館のロゴマークになっている。
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「望郷」1959年 62歳頃 
代表作のひとつ。ギリシャ神殿の廃墟が後方に描かれている。1959年の第5回日本国際美術展で、一般大衆による投票で大衆賞を受賞。油彩だが、非常になめらかで筆跡が残っていない。留学時代にルーブル美術館で古典美術を学び、影響を受けたことから。
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「バイオレット」1952年
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色々な包装紙や表紙のデザインも行っており、昭和8年創業の自由が丘モンブランの包装紙も手掛けた。
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彫刻「砂の影」1977年 79歳頃 横たわる女性を抽象で表現。フォルムは納得なのだが、筆の跡すら残さない絵画を描いている作家の彫刻は、とても粗削りでビックリ。
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3階 風景と人の営み、人物、静物画

グランマ・モーゼス「夕暮れ、森のキャンプ」1940年頃 
アメリカはNYの女性が、50歳を超えてから絵画を描き始めた。油彩が数点あったのだが、なんと刺繍の作品が展示してあった!
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東郷青児「南仏風景」1963年
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ピエール=オーギュスト・ルノアール「浴女」1892~93年頃 51歳頃 
一度古典主義になり、また印象派に戻る時の戻りかけの時期の作品。親友のモネが所有していた作品。ニスが黄ばんでいたので取ったところ、綺麗な色彩が現れた。
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「帽子の娘」1910年 69歳頃 
円熟期の作品。修復をする予定だったが、コロナの為に延期になっている状態。ずっと茶色っぽい。
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二枚を比較してみると、修復前はいかに茶色いかが良くわかるかと。
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ポール・ゴーギャン「アリスカンの並木路、アルル」1888年 
友人のゴッホに誘われて、南仏アルルに移住した頃の作品。パリよりも明るい光を求めたゴッホは南仏アルルへ転居。そこで芸術家の村を作りたいと他の色々な画家を誘うが誰も来てくれないので、ゴッホの弟のテオが作品を買ったりお金を出すなどして、ゴーギャンにアルルに行ってもらった。
アリスカンとは、古代ローマの遺跡のお墓で、現在ユネスコの世界遺産にもなっている。作品にも、ローマ時代の石棺も描かれている。ゴーギャンが、べたっと塗るクロワゾニスムを完成させた後に描いた作品ではあるが、未だ筆のタッチなどは違う。ゴーギャンがアルルに着いてから、20メートルの粗い目のジュートと呼ばれる麻布のキャンバスを買い、ゴッホと分け合う。その布でゴッホが描いたのが「ひまわり」。ゴーギャンがこの作品を描いている時に、背中合わせでゴッホが描いたのが「アリスカン」。10月23日にゴーギャンがアルルに到着したが、2カ月後のクリスマス前には、ゴッホは失意のうちに耳を切り落としてしまう。
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確かに目が粗いキャンバスなのが良くわかる。
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ポール・セザンヌ「りんごとナプキン」1879-80年
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フィンセント・ヴァン・ゴッホ「ひまわり」1888年 
1987年のオークションで、安田火災海上が落札。当時の絵画史上最高額の53億円だった。今回、新しい美術館になるにあたり、この絵の為に特別なケースを作り、作品との距離を近くし目線を下げ、ガラスも透明度の高いものにしたので反射を抑えた。
アルルの家の食堂を「ひまわり」で飾りたいと描いたもので、ひまわり7作のうちの5番目に描いたと言われている。4番目に描いたロンドンナショナルギャラリーの物をゴーギャンが欲しがったので、セルフコピーを作った。(ロンドンナショナルギャラリーの「ひまわり」の様子は こちら)構図などは決まっている為、厚塗りのタッチなど、新しい試みをしていた。
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