以前に根津美術館収蔵の国宝「燕子花図」を見に行ったが(その様子は こちら)、とにかく人が多かった。今回、財団創立80周年記念特別展として、例年はカキツバタの時期にしか公開しないこの「燕子花図」など所蔵の国宝や重要文化財が公開され、しかも時間予約制で混まないとのことで、これは行くしかないなと。(解説文及び画像はHPから)
根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた実業家・初代根津嘉一郎(1860~1940)が蒐集した日本・東洋の古美術品コレクションを保存し、展示するためにつくられ昭和16年にオープンした美術館。戦災などにも遭っているが、昭和29年には再建され、平成18年からは3年半をかけて新たにリニューアルされたのだそう。現在6874件もの所蔵品があるが、国宝7件、重要文化財87件、重要美術品94件が含まれている。
まず 展示室1・2 を。

国宝 「燕子花図」尾形光琳筆 江戸時代 18世紀 紙本金地着色 6曲1双(各)縦151.2cm 横358.8cm
総金地の六曲一双屏風に、濃淡の群青と緑青によって鮮烈に描きだされた燕子花の群生。その背後には『伊勢物語』第9段の東下り、燕子花の名所・八つ橋で詠じられた和歌がある。左右隻の対照も計算しつつ、リズミカルに配置された燕子花は、一部に型紙が反復して利用されるなど、一見、意匠性が際立つが、顔料の特性をいかした花弁のふっくらとした表現もみごとである。筆者の尾形光琳(1658〜1716)は京都の高級呉服商に生まれ、俵屋宗達に私淑した。
燕子花図 右隻

燕子花図 左隻

国宝 「布袋蔣摩訶問答図」ほていしょうまかもんどうず 因陀羅筆 楚石凡琦賛 中国・元時代 14世紀 紙本墨画 1幅 縦35.8cm 横48.5cm
牧谿に代表される禅僧による水墨画は、元代にも独自の展開を見せた。因陀羅はインド僧ともいわれる伝記不明の画僧。禅宗の祖師や在俗の聖人、禅僧と俗人の対話の場面を描き、賛者も同じ一連の作品が伝わっている。もとは一具をなしていた画巻から切断された可能性が高い。本作品は、布袋と親孝行の蔣摩訶が問答する様を描く。禿筆(とくひつ)によると思われるぎこちない線描と濃墨を組み合わせた特異な画風を示すが、人物の表情の捉え方は非凡で、すこぶる禅味に富む。賛者の楚石梵琦(1296〜1371)は元末明初の禅僧で、能書として知られる。
布袋蔣摩訶問答図-001

国宝 「鶉図」伝 李安忠筆 中国・南宋時代 12~13世紀 絹本着色 1幅 縦24.4cm 横27.8cm
 赤い実のなった枸杞(くこ)や穂のついた雄日芝(おひしば)が生えるなか、1羽の鶉が歩む姿を描く。鶉は、精緻な羽描きによって量感豊かに表現されている。わずかに俯瞰視されることで、鶉の運動感や空間の奥行きが強められている。花鳥画を得意とした南宋の画院画家・李安忠筆の伝承の由来は不明であるが、その実在感に富んだ表現は、本作品を宋代花鳥画の名品たらしめている。足利義教の鑑蔵印「雑華室印」が捺されており、同じく足利将軍家に蔵され、菊を配したなかに鶉を描く別の1幅とともに対幅をなしていたことが知られる。
鶉図-001

「観瀑図」芸阿弥筆・月翁周鏡ほか2僧賛 室町時代 文明12年(1480)    紙本墨画淡彩 1幅
滝は文人高士の理想の対象であり、観瀑図は漢画の重要な画題とされた。本図は足利将軍家に同朋衆として仕えた芸阿弥(1431〜85)が描いた入念な水墨山水図で、端正な筆致と整然とした構図に、南宋院体画を学んだあとがうかがえる。図上に当時の京都五山を代表する月翁周鏡、蘭坡景茝、横川景三の賛があり、それによって本図が文明12年、建長寺の僧祥啓が3年にわたる芸阿弥のもとでの絵画修行の後、東国へ帰るに際して与えられたものと知られる。美術史上の価値はきわめて高い。
観瀑図-001 

「金剛界八十一尊曼荼羅」鎌倉時代 13世紀 絹本着色 1幅 縦216.0cm 横209.8cm
『金剛頂経』が説く金剛界九会曼荼羅の中心をなす成身会のみを一図に表し、周囲の賢劫十六尊と四天王を併せ、八十一の諸尊で構成する曼荼羅。9世紀に入唐した天台僧円仁が将来した祖本を鎌倉時代に転写したもので、近江・金剛輪寺灌頂堂に伝わっていたことが知られる。本図に描かれた諸尊は、面長の面部に表された厳しい目鼻立ち、細く引き締まったプロポーション、そして肉身や着衣に強い隈取りを施す点に特徴があり、唐風を色濃くとどめる作風として注目される。
金剛界八十一尊曼荼羅-001

金剛界八十一尊曼荼羅2

「大日如来坐像」平安時代 12世紀 絹本着色 1幅 縦150.0cm 横87.0cm
真言密教とは、大日如来を教主として構築された宗教的宇宙であり、その世界は両部の経典『大日経』『金剛頂経』に説かれる。本図は『金剛頂経』が説く大日如来の独尊画像である。優美華麗な装飾を施した宝壇の上、頭上に五智宝冠を頂く大日が、蓮華座に坐して智拳印を結ぶ。その相貌は密教尊像にふさわしい厳さをたたえ、一方、着衣の彩色や文様は壮麗さを極めるものであり、本図は平安時代後期に制作された美麗な仏画の優品に数えられる。
大日如来坐像

「愛染明王坐像」鎌倉時代 13~14世紀 絹本着色 1幅 縦123.8cm 横95.0cm
宝瓶の上に月輪が乗り、その中に蓮華座に坐す三目六臂の愛染明王像を表す。愛欲や煩悩がそのまま悟りであることを表す愛染明王の像容は、金剛智訳『瑜祇経』巻上「愛染王品」に基づく。赤色忿怒の相が巧みに表わされ、体部と六手との間に安定したバランスを示す本図は、鎌倉時代の愛染明王像の優品にかぞえられる。月輪の左右上方に後醍醐天皇(在位1318〜39)の宸筆と伝える偈文が墨書されるが、画像の制作時期は鎌倉時代末期よりさかのぼるとみられる。
愛染明王坐像
「天狗草紙絵巻」鎌倉時代 13世紀 紙本着色・墨書 1巻 縦30.5cm 長1025.0cm
「天狗草紙」とよばれる一連の絵巻は、模本も含めて7巻が現存する。内容は、奈良・京都の大寺の僧侶たちを天狗にたとえ、その驕慢ぶりを風刺、非難したもの。近年、神奈川・称名寺でこの絵巻とほぼ同内容の「七天狗絵」の絵詞(絵巻の詞書)の写本が発見され、当初より7巻本として制作されたことが明らかとなった。当館所蔵の1巻は、全体の最終巻にあたるもので、天狗たちがあらためて世の無情を感じておのおのの宗旨に従って修行し、成仏したと結ぶ。図版は、改心した天狗たちが各々修行を誓う場面。興福寺巻の序文に「于時(ときに)永仁四年(1296)……」とあり、制作年もほぼその頃とみなせる。画中に登場人物の名や台詞(画中詞)が記されている。
天狗草紙絵巻

「青磁蓮唐草文水瓶」朝鮮・高麗時代 12世紀 1口 高36.5cm 底径8.8cm
青銅器の浄瓶を写した青磁の器は幾つか知られるが、これは中でも優雅な姿と彫文様で知られる作品である。胴には蓮花に唐草文が片切彫りに毛彫りを加えてゆったりと施されている。注口には、蓋が付されていたが、現在は失われている。青緑色の青磁釉がたっぷりと施され、細かな貫入が見られ、底にも施されている。底には釉下に細い刻線で「孝久刻」の銘が見られ、文様を施した陶工の名前とも言われている。「孝」銘の陶片は全羅北道扶安郡柳川里窯址で出土しているが、これは全羅南道康津郡沙堂里窯の製品ではないかと思われる。
青磁蓮唐草文水瓶

「仏涅槃図」南北朝時代/1345年 絹本着色 縦203.2㎝ 横161.5㎝ 一幅
諸地巡歴で病をえた釈尊は沙羅双樹のもと、頭を北に向け、右脇を下にして身を横たえ、入寂したと伝えられる。涅槃図はこのような釈迦入滅の相をほとんど共通するパターンによって表現するものである。平安時代に制作された涅槃図は、菩薩・弟子・諸天・大衆などが比較的少なく、画面の中で釈尊の占める割合が大きいのに対して、鎌倉時代のそれは会衆、とくに畜類が多く、周辺の情景に広いスペースがさかれているのを特徴とする。本館蔵本にも多くの会衆が描かれ、また樹間の河波、降下する摩耶夫人の一行、雲間よりもれる月輪などがあらわされる。軸木の墨書銘から、本図は康永4年(1345)2月5日、興福寺大乗院絵所の吐田座頭領、法橋行有(当時76歳)とその子専有(38才)らが描いたものであることが知られる。会衆の着衣にみられる肥痩のある墨線や誇張された雲の形式は、伝統の根強い南都絵所においても宋元様式の影響がみられることを示している。
仏涅槃図

「釈迦如来・阿難像」鎌倉時代 絹本着色 縦108.8㎝ 横62.1㎝ 一幅
本図は画面の上下に賛文帯を画し、その中段に清涼寺式の釈迦如来と、随侍する阿難尊者に想定される僧形の一人物が、雲に乗って来迎する様子をあらわした異色の画像である。釈迦如来は蓮華座上に、右手施無畏印、左手与願印の姿で立ち、渦巻き状の頭髪に、襞を重ねた清涼寺像特有の赤衣を通肩に纏い、衣には唐草地文の上に団花文を散らす。光背も同じく清涼寺式のそれで、円光、身光をめぐって化仏を表出した透かし彫り唐草文の挙身光が付され、頭上には銀泥による唐草文の天蓋がかかる。如来の肉身は現在赤褐色を呈するが、明らかに補彩と認められる。釈迦如来の右傍には阿難に擬せられる白面の比丘が侍立し、七宝文を地文とする袈裟をつけ、右肩に唐草文のある赤衣をかけ、左手に梵筐を捧げており、二尊の足下には白地に銀泥の隈をとった来迎雲があらわされる。
天蓋の間に金泥で記された梵字は剥落するが、賛文帯上段には『法華経』方便品と寿量品の偈五言四句を抄出し、下段には出典不明の偈文七言四句をそれぞれしたためる。これら区画にはさらに「宝筐印陀羅尼」「阿弥陀大呪」「同小呪」「光明真言」「尊勝陀羅尼」などを金泥梵字で記すほか、上段下段には諸尊名に加え「承元三年(1209)六月廿九日書之」と墨書し、これらの字句は後の書き入れながら、本図の成立もその様式からみて、承元三年よりさして遡らない頃と推量される。いずれにせよ、清涼寺式釈迦如来を主題とした本図のような仏画は他に類例がなく、鎌倉初頭における釈迦信仰を背景に、おそらくは南都仏教復興の過程で成立したものであろうことが予想される。
釈迦如来・阿難像

「善光寺如来縁起絵」鎌倉時代 絹本着色 (各)縦162.7㎝ 横91.2㎝ 三幅
信濃国長野にある善光寺の本尊は、丈一尺五寸の阿弥陀如来の一光三尊像で、三国伝来の霊像と伝えられ、古来信仰を集めている。本作はその霊像が天竺・百済を経て日本へ渡来した経緯と善光寺草創の縁起を描いた、掛幅絵の優作である。善光寺縁起文には各種の伝本があって、内容に異同出入があり、また煩雑な内容のものが多いが、この三幅本は、『続群書類従』所収の四巻本漢文縁起の第一・二・三巻にほぼ対応するものである。これによると第一幅は釈尊在世時代の天竺での説話と百済への渡来を描いた「天竺百済利益」、第二幅は仏像の受難と聖徳太子の守屋征伐を描いた「日本国王臣順逆利益」、第三幅は善光寺草創の経緯を描いた「善光善佐因縁」の幅である。第三幅は中央に大きく一光三尊像を描き、下辺に善光寺伽藍の大景観を、ともに正面観に堂々と図絵している。この第三幅が中央に第一幅が向って右、第二幅が左に置かれ、絵解きされたものと考えられる。
1 2 2

国宝 「那智瀧図」鎌倉時代 13~14世紀 絹本着色 1幅 縦160.7cm 横58.8cm
熊野三所権現のひとつである飛瀧権現を表す、垂迹画の名品。上方の岩峰には月輪がかかり、下方には、杉の樹幹が屋根を貫く拝殿、その傍らに大きな卒塔婆が表される。これが弘安4年(1281)、亀山上皇参詣の折に建立された碑伝であれば、本図の制作はそれからまもない時期となる。神体である滝のみを描いた唯一の垂迹画として、また、墨と金泥により岩壁を描写する手法などに中国宋元絵画の影響が看取される風景画として、本図は重要な作例である。
那智瀧図

展示室3以降は追ってその2で。


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