約5万平方メートルの敷地に、江戸~大正期にかけての四国各地の古い民家を移築復原している屋外型博物館。昭和51年(1976年)に開設。重要文化財の建造物2棟、重要有形民俗文化財の建物6棟をはじめ、ほぼ全ての建造物が文化財の指定・登録を受けている。
祖谷のかずら橋 徳島にある平家の落人村で、山に自生している白口かずらを編んで吊り橋を作った。日本三大奇橋のひとつで、それを3分の2の長さで再現されているもの。橋桁の間隔が広く、足がはまりそうなぐらいでスリリング。
小豆島農村歌舞伎舞台 文久3年(1863年)と言う落書きがあることから、それよりも古いものと判明。舞台の中央には回り舞台もある。茅葺きを変える時には、専門の職人さんがおられるが、茅自身も確保が大変で生産場所は公開されていないほどなのだとか。石段の一部はオリジナルとなっている。
小豆島の猪垣(ししがき)農作物が猪や鹿に食べられないようにと畑の周辺に垣根を巡らせ、粘土に松葉を入れて作ったもの。実際に現在もこの四国村では猪が生息していて、欠けた部分は通った跡とのこと。
石垣からこの茅葺きの屋根まで動物が上がってしまう為、返しのような垣根を作っておられる所も。
旧山下家住宅 東讃岐の山村農家。小規模な作りで、半分は農作業用の土間。
流れ坂 入り口からずっと続いている坂は、屋島に隣接する庵治の石切り場から切り出された花崗岩が使われていて、彫刻家の流政之氏の作品。231メートルもある。
丸亀藩御用蔵 米蔵で、江戸時代後期の建築。
旧河野家住宅 愛媛県の南の小田町にあった18世紀前半頃の建築。部屋の床は全て竹を敷き、各部屋に囲炉裏が切られている。
土間には、和紙の原料にする楮(こうぞ)を蒸すクドがあり、大きな桶が吊り下げられている。
砂糖〆小屋 江戸時代後期には、砂糖は讃岐の特産品であり、白糖の生産では日本一だった。円錐形の建物は、四国ではここにある2棟しか現存していないそうだが、ぱっと見た時は、南アフリカのズールー族の家そのものに見えてしまった😂
釜屋は、登窯となっていて、臼で絞った砂糖汁をかまどで焚きしめると黒砂糖が出来、さらにこれを精製して讃岐特産の三盆糖が作られる。
猪垣 上記の小豆島の猪垣とは異なり、徳島の美馬郡のものは、小石を積み上げて作られている。この猪垣の周りに落とし穴を掘って猪や鹿を生け捕りにして、その肉を「薬喰い」と言って食べていたのだとか。
南予の茶堂(遊庵)愛媛県北宇和郡にあった茶堂。四国の古い道沿いに、このようなお堂があちこちに建っていた。悪例払いの意味で建てられたが、通りかかった人に湯茶の接待や、お遍路さんの休憩所となり、その時の落書きなどもある。嘉永6年(1853年)と書かれているので、それ以前にあったものと。中央の地蔵菩薩は流政之氏の作品で、瀬戸内寂聴尼によって開眼された。
燈台退息所 様式燈台の住居もいくつか移築されている。
旧下木家住宅 安永10年(1781年)美馬郡にあった、木工の木地師(きじし)の村の住宅。梁に穴を空けて一本の柱を通す「おとしこみ方式」で組まれている。
床下には、芋やこんにゃく玉などを貯蔵する穴が5つ掘られている。
久米通賢先生旧宅 久米通賢氏とは、江戸時代、讃岐は全国の塩の生産量の約半分を占めていた坂出塩田の基礎を作った人。
旧中石家住宅の隠居屋 平家の落人村である祖谷の民家で、18世紀後半の建築。父親が隠居して長男に世帯を譲ると、主屋の背後の一段高い所にある隠居屋に移り住んだのだそう。
旧前田家土蔵 高知に明治初期に建てられた土蔵。高知は有数の多雨地帯の為、壁面に三段の水切りが付いている。土蔵入り口横は番屋と呼ばれ、隠居屋と離れ座敷を兼ねていた為に立派で大きい。このような土蔵は平野部に多く、漁村や山間部ではあまりないのだそう。
旧吉野家住宅 徳島の伊座利地区の漁師の家。借金をして大網を張ったが、その年から不漁続きとなって大損し、この地区だけは改築が出来ず、皮肉なことに今は貴重な文化財になったという。
染が滝 流政之氏の作品。
アーチ型橋 昔の金比羅街道沿いにあった。明治34年(1901年)築造。
四国村ギャラリー
安藤忠雄氏が美術館と庭園を構成する「四国村ギャラリー」を設計し、2002年に開館。
展示品は撮影不可の為、画像はHPから。
オーギュスト・ルノワール「赤いブラウスの少女」1907

ピエール・ボナール「裸婦」1941

金銅菩薩立像 北魏 AD518年


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祖谷のかずら橋 徳島にある平家の落人村で、山に自生している白口かずらを編んで吊り橋を作った。日本三大奇橋のひとつで、それを3分の2の長さで再現されているもの。橋桁の間隔が広く、足がはまりそうなぐらいでスリリング。
小豆島農村歌舞伎舞台 文久3年(1863年)と言う落書きがあることから、それよりも古いものと判明。舞台の中央には回り舞台もある。茅葺きを変える時には、専門の職人さんがおられるが、茅自身も確保が大変で生産場所は公開されていないほどなのだとか。石段の一部はオリジナルとなっている。
小豆島の猪垣(ししがき)農作物が猪や鹿に食べられないようにと畑の周辺に垣根を巡らせ、粘土に松葉を入れて作ったもの。実際に現在もこの四国村では猪が生息していて、欠けた部分は通った跡とのこと。
石垣からこの茅葺きの屋根まで動物が上がってしまう為、返しのような垣根を作っておられる所も。
旧山下家住宅 東讃岐の山村農家。小規模な作りで、半分は農作業用の土間。
流れ坂 入り口からずっと続いている坂は、屋島に隣接する庵治の石切り場から切り出された花崗岩が使われていて、彫刻家の流政之氏の作品。231メートルもある。
丸亀藩御用蔵 米蔵で、江戸時代後期の建築。
旧河野家住宅 愛媛県の南の小田町にあった18世紀前半頃の建築。部屋の床は全て竹を敷き、各部屋に囲炉裏が切られている。
土間には、和紙の原料にする楮(こうぞ)を蒸すクドがあり、大きな桶が吊り下げられている。
砂糖〆小屋 江戸時代後期には、砂糖は讃岐の特産品であり、白糖の生産では日本一だった。円錐形の建物は、四国ではここにある2棟しか現存していないそうだが、ぱっと見た時は、南アフリカのズールー族の家そのものに見えてしまった😂
牛が腕木をぐるぐる引いて石臼を回し、サトウキビの生汁が搾られていた為、円形の建物。
釜屋は、登窯となっていて、臼で絞った砂糖汁をかまどで焚きしめると黒砂糖が出来、さらにこれを精製して讃岐特産の三盆糖が作られる。
猪垣 上記の小豆島の猪垣とは異なり、徳島の美馬郡のものは、小石を積み上げて作られている。この猪垣の周りに落とし穴を掘って猪や鹿を生け捕りにして、その肉を「薬喰い」と言って食べていたのだとか。
南予の茶堂(遊庵)愛媛県北宇和郡にあった茶堂。四国の古い道沿いに、このようなお堂があちこちに建っていた。悪例払いの意味で建てられたが、通りかかった人に湯茶の接待や、お遍路さんの休憩所となり、その時の落書きなどもある。嘉永6年(1853年)と書かれているので、それ以前にあったものと。中央の地蔵菩薩は流政之氏の作品で、瀬戸内寂聴尼によって開眼された。
燈台退息所 様式燈台の住居もいくつか移築されている。
旧下木家住宅 安永10年(1781年)美馬郡にあった、木工の木地師(きじし)の村の住宅。梁に穴を空けて一本の柱を通す「おとしこみ方式」で組まれている。
床下には、芋やこんにゃく玉などを貯蔵する穴が5つ掘られている。
久米通賢先生旧宅 久米通賢氏とは、江戸時代、讃岐は全国の塩の生産量の約半分を占めていた坂出塩田の基礎を作った人。
旧中石家住宅の隠居屋 平家の落人村である祖谷の民家で、18世紀後半の建築。父親が隠居して長男に世帯を譲ると、主屋の背後の一段高い所にある隠居屋に移り住んだのだそう。
旧前田家土蔵 高知に明治初期に建てられた土蔵。高知は有数の多雨地帯の為、壁面に三段の水切りが付いている。土蔵入り口横は番屋と呼ばれ、隠居屋と離れ座敷を兼ねていた為に立派で大きい。このような土蔵は平野部に多く、漁村や山間部ではあまりないのだそう。
旧吉野家住宅 徳島の伊座利地区の漁師の家。借金をして大網を張ったが、その年から不漁続きとなって大損し、この地区だけは改築が出来ず、皮肉なことに今は貴重な文化財になったという。
染が滝 流政之氏の作品。
アーチ型橋 昔の金比羅街道沿いにあった。明治34年(1901年)築造。
四国村ギャラリー
安藤忠雄氏が美術館と庭園を構成する「四国村ギャラリー」を設計し、2002年に開館。
展示品は撮影不可の為、画像はHPから。
オーギュスト・ルノワール「赤いブラウスの少女」1907

ピエール・ボナール「裸婦」1941

金銅菩薩立像 北魏 AD518年

四国村ギャラリーからは、水景庭園と高松市街が望める。

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