松岡美術館のコレクション展<1>からの続き
「二色の美」会期:4月26日~7月24日’22
東洋陶磁コレクション
白磁は、北斎時代(6世紀頃)とされていたが、2009年の発掘で、300年遡る可能性が出て来たのだそう。
白磁 龍耳瓶 唐時代7~8世紀
後代の随、唐時代には刑州窯、定窯で白磁が盛んに焼かれたが、定窯のような純白素地の白磁を造る為には生産地が限られる為に貴重で高価だった。磁州窯では定窯のような白色磁土は手に入らず、鉄分が多い灰色系の素地に白泥で化粧を施した白釉陶器を生産。安価の為、庶民の白磁となった。
白釉 百合口瓶 磁州窯 北宋時代 11~12世紀
白釉劃花 木槿文(はくゆうかくか むくげもん) 枕 磁州窯系 北宋時代11世紀
緑釉劃花 飛鳥文 枕 磁州窯系 金時代 12~13世紀
白地黒掻き落としは、白泥の上にかえた鉄絵具を掻き落とす文様。白釉掻き落とし技法より、明確に表現されている。
白地黒掻落 牡丹文 瓶 磁州窯 北宋時代 11~12世紀
白釉黒花 飛鳳文 壺 磁州窯系 元時代 13~14世紀
黒釉掻落 花卉文 四耳壺 磁州窯系 金~元時代 12~13世紀
景徳鎮窯(江西省にある陶磁器の産地) 現代まで1000年以上続く窯場。宋時代には青白磁・影青(いんちん)と呼ばれる青みを帯びた上質な白磁を、元時代にはコバルト顔料を使った青花磁器を、明・清時代には五彩や西洋の無線七宝技術を応用した粉彩などの技法を開発。
白磁 馬上杯 景徳鎮窯 明時代 1426~1435年
青花は、外交に力を入れた元王朝が、貿易を得意としたイスラム人を通じて輸入されたコバルト顔料を白磁の絵付けに用いて生まれたもので、元時代のものは貴重。
青花 双鸞菊文 大判 景徳鎮窯 元時代 14世紀
明時代初期には、西方からのコバルト供給が途絶えて国内産のコバルトを使用した為、灰色がかった青や淡い青になる。永楽期には、西方産のコバルト供給が再開し、再び美しい青藍色の青花が作られた。
青花 アラベスク文 扁壺 景徳鎮窯 明時代 永楽 1403~1424年
青花 龍鳳文 瓢形瓶 景徳鎮窯 明時代 1522~1566年
清時代の景徳鎮窯では、製陶技術の頂点を極めた為、倣古的に明時代初期の青花を手本とした。明初期の青花の特長である文様のにじみを、あえて点描で再現。
青花 果鳥図 扁壺 景徳鎮窯 清時代 1723~1735年
青花 八宝文 扁壺 景徳鎮窯 清時代 1736~1795年
藍地金彩 花唐草文 盤 景徳鎮窯 清時代 1662~1722年
青花 龍唐草文 天球瓶 景徳鎮窯 明時代 永楽 1403~1424年
松岡清治郎氏と競り合って、明時代の永楽期の名品をポルトガルの銀行王が42万ポンド(陶磁の貨幣価格で約3億円)で競り勝った。敗れた80歳の松岡氏は別の元時代の景徳鎮を約22~23万ポンドで購入。その後に、競り勝ったその銀行王は購入後2週間ほどしてポルトガルの軍事クーデターで逮捕され支払い不可能となったと連絡を受け、紆余曲折の末にその作品を購入。2つの景徳鎮が手に入ったことから、美術館設立を決意することになったのだそう。
これと同じような作品は、台湾の故宮博物館や、イランのアルデビル寺院にある。最初42万ポンドで競り負けたが、この時はおそらく22~23万ポンドで手に入れたらしい。
焼き上げた青花の余白を黄釉で塗り込め、もう一度焼き上げる方法による黄地青花。鉛を原料とする黄釉は青花の焼成に適した高火度で焼くと、色が飛んでしまうため、二度焼きが必要だった。
黄地緑彩 人物図 鉢 景徳鎮窯 明時代 1522~1566年
明時代初期の洪武期には、イスラム圏からのコバルト顔料の供給が途絶え、青花のコバルトを酸化銅顔料に置き換えた釉裏紅磁器が作られた。酸化銅顔料は扱いにくい顔料の為、数も少なく発色が良い作品は稀少。
釉裏紅 牡丹文 大盤 景徳鎮窯 明時代 洪武 1368~1398年
彩裏紅 魚文 馬上杯 景徳鎮窯 清時代 1723~1735年
火焔紅と火焔青は、清時代の景徳鎮官窯で研究が行われた。
火焔紅 長頸瓶 景徳鎮窯 清時代 1644~1912年
「故きを温ねて」会期:4月26日~6月5日’22
かつて大正年間に建てられた松岡氏の自宅があった所に建っている美術館だが、私邸の2階にあった床の間を移築している。
橋本雅邦「龍虎図」1903~6年頃 力量のあるものが合わさって益々栄える、君子のもとには優秀な人物が現れることを例えているとのこと。
滝和亭「桃林五牛図」文政13年(1830年) 平和になり、戦争に利用した牛を放ち、もう武力を用いないことを示したという故事より。
円山応挙「趙飛燕」天明8年~寛政7年(1789~1795年)
中国からもたらされた花鳥画には、中国語で「祝」と「竹」の発音が同じという同音異字によるものや、常緑の松は不老、寒さでも咲く梅などを中国画は吉祥の意味があり、日本画にも浸透。
田崎草雲「玉堂富貴」明治14年(1881年)
岡本秋暉「蒼松孔雀図」嘉永5年(1852年) 孔雀は人の行うべき9つの徳(九徳)を備える瑞鳥とされ、富貴の象徴とされている。
狩野探幽「絵師流書」寛文12年(1672年)中国画人の作品の模写。前半が探幽の養子である狩野洞雲、後半が狩野探幽(画像)の合作。
狩野探幽「牡丹に雉子、尾長」寛文6年(1666年)右幅は富貴の花の牡丹と共に母性愛の深い鳥である雉。左幅は日本の尾長ではないサンジャク。
橋本雅邦「芦双鷺」 明治33年(1900年)頃 白鷺は吉兆を示す。
狩野常信「寿老人・竹鶴・松鹿」江戸時代 長寿を授ける寿老人、長命の鶴、多くの富を表す白い鹿を描いた吉祥画。
美術館の玄関にある羊達が見送ってくれた。

にほんブログ村

にほんブログ村
コメント