梅雨入り前の最後と思われるお天気の良い週末となったので、長野県の松本や山梨県の北杜市に行くことにした。
中央道からは、未だ綺麗に冠雪している富士山が望めた。
中央道からは、未だ綺麗に冠雪している富士山が望めた。
八ヶ岳
富士山の次ぎに高い北岳(3193m)
甲斐駒ヶ岳(2967m)
諏訪湖
北アルプスも
まずは松本市美術館へ。常設展として草間彌生氏の「魂のおきどころ」展、企画展の「よみがえる正倉院宝物」展を見た後(それらの様子は追って)、国宝の松本城へ。昔に一度訪れて以来。
平時には利便性があるものの、防御力には劣るとされている平城である松本城は、戦国時代に築かれているので非常に珍しいが、あえて平坦な場所を選択しており、戦国時代から江戸時代に拡張されてきた。
天守前の堀の幅は60メートルもあり、近くに見えてもなかなかたどり着けない。水堀は、お城の美しさを演出するが、それ以外の用途や工夫がたくさんある。この堀は内堀だが、もともとは3重の水堀(総堀、外堀、内堀)によって守られていた。かつての水堀を埋め立てて造られた井戸が現在ではたくさんあり、松本市街に約800もの井戸があり、松本の生活用水となっている。それぞれ井戸によって味が違うが柔らかい水。3000メートル級の山々から流れてくる雪融け水が松本盆地に集まり、地下水になっており、堀は地下水で満たされている。実は全くの平な土地に築城されているわけではなく、地下水が沸いている北東が一番高く、南西が低い。総堀では、6~7メートルの高低差があり、土手がないと水が低い所に流れ出てしまう為、土手で堀を仕切って堀の水位を調整しており、外堀には水切土手が5か所設置されていた。また、発掘調査により、総堀や外堀の中には、敵の侵入を食い止める為に杭が多数縦に埋められていて、総堀だけで約3万本あった。また、総堀の内側のへりには、3.6メートルの高さの土塁に加え、2.5メートルの塀が建てられ、その土塁で周囲2キロを囲っていた。松本城の西にあるフォッサマグナ構造線の糸静線の段差を利用して西側に堀を作りたかったので、お城の東側に今位置している善光寺街道を松本城を作るに当たって東に迂回させたのだとか。当時の最高の技術で松本の湧き水を利用し、斜めの土地を測量する技術、土木の力などがわかる。
この天守閣群の手前にある芝生に、本丸御殿がかつてはあった。享保12年(1727年)に消失し再建はされていない。天守群を構成しており、大天守、その右が乾小天守、左が月見櫓で、3つのデザインが異なるのは他にはない姿。大天守は約25メートル(石垣部分覗く)となっている。因みに、姫路城の高さは31メートルで、松本城は姫路城に次ぐ日本で2番目に高い大天守。松本盆地は、7本の街道の結節点だったこともあり、遠くからでも見せつける城が必要で、当時は天守群以外に大きな建物はないように、一か所に大建築を集めることで、豪華な城に見せ、権威ある城を作ることを強く意識して出来ている。
天守部分を解体修理した際に、土台支持柱なるものが発見された。直径40センチの丸太16本が、石垣の中に基礎として埋められている。重さ約1000トンあるので、石垣だけではゆがんだりふくらんだり崩れやすい為、地面に均等に重さを伝えるべく土台支持柱が、また軟弱な地盤の部分には筏を組んで上に石垣が盛られるなどしている。
屋根の数は5つだが、中は6階建てになっている。1階と2階を一本の長い柱の「通し柱」を使って上に梁を乗せる。1・2階のユニットの上に、別の通し柱を組んだ3・4階部分のユニットを埋め込み、同様に5・6階のユニットを乗せる。3階部分は2階の屋根の下で見えないが、上階の屋根は小さい為に5階はそのまま見えて、5階建てに見える。
尚、通し柱は手斧の跡が残っている3階に対し、同じ通し柱の4階部分は、手斧の跡はなく、綺麗に仕上げてある。上の階ほど仕上げが丁寧で、4階は書院造りで格式の高い空間だった為、木目が際立つように綺麗に仕上げてある。
屋根の数は5つだが、中は6階建てになっている。1階と2階を一本の長い柱の「通し柱」を使って上に梁を乗せる。1・2階のユニットの上に、別の通し柱を組んだ3・4階部分のユニットを埋め込み、同様に5・6階のユニットを乗せる。3階部分は2階の屋根の下で見えないが、上階の屋根は小さい為に5階はそのまま見えて、5階建てに見える。
尚、通し柱は手斧の跡が残っている3階に対し、同じ通し柱の4階部分は、手斧の跡はなく、綺麗に仕上げてある。上の階ほど仕上げが丁寧で、4階は書院造りで格式の高い空間だった為、木目が際立つように綺麗に仕上げてある。
外壁を覆う黒い木材部分は、青空では青く、夕日では赤身を帯びる。その黒色は漆。
織田信長の安土城天守で、荘厳に見せる為に初めて漆を使用した。もともと漆は銀閣寺などお寺(黒漆が光って銀色に見えたので銀閣寺)や、興福寺の阿修羅像には漆を固めて使われるなど、漆は神聖な塗料だった。白木の板に、柿渋と炭を混ぜて腐食を防ぎ、排水性のある鉄分を混ぜた黒漆が塗られたが、今でも1年に一度塗り替えており、400年前も同じ姿を保ち続けている。ただし、温度は20数度、湿度60数パーセントでないと漆は固まらない為、実は松本は適していないことから、塗り替えの時期は秋としている。太鼓門付近から出土した瓦には、金がまだ付着しており、金を塗った瓦が天守などに使われていたことが判明。二条城の唐門は、黒漆に金箔を貼っており、大坂城もそうだった。豊臣秀吉の天下の時代に天守は建て始められ、金と黒をイメージカラーとして、信長・秀吉につながる権威を示そうとしていた。
名古屋城には、おもてなし武将隊がいたが、松本城にもおられた!
黒門 本丸に入る正門。本丸防衛の要。黒門と櫓門(城壁の上に櫓を配した門)は正面を向いて立っている。以下、後述の太鼓門も同様。攻撃的なしくみで、櫓門の2階からも侵入者を攻めることが出来る。
足元には石落、壁には狭間がある。各門などの狭間を合わせると、116ヶ所も備えられている。
天守の壁は外壁は塗ごめの「大壁」で、内壁は柱の見える「真壁(しんかべ)」で、1・2階の壁の厚さは28.8~29.4センチあり、上階にいくほど薄くなっているものの、火縄銃の弾は通さない。
階段は非常の狭く急勾配で、天守閣に至る階段は男性の膝ぐらいの高さが一段と言う高さになっている。建築当初から内部は変わっていない。
天守閣最上階(天守六階)に到着。
戦の時に望楼として使われた。天井は井桁梁で組まれ、天井中央には二十六夜神と言う松本城の神様が祀ってある。天守の築造年代は、文禄2年~3年(1593~4年)と考えられ、元和3年(1617年)に入封した戸田氏が祀ったとされる。月齢26日の月を拝む信仰で、毎月3石3斗3升3合3勺(約500kg)ものお米を炊いて供えたと言われている。
屋根裏には、太い梁が井の字型に組まれた井桁梁で、さらに太い桔木(はねぎ)が外側に向かって放射状に配置され、思い瓦屋根の軒先が下がらないように支えるテコの原理を使った装置とのこと。鎌倉時代の寺院建築から採用されている。
西側からは、北アルプスの山々が良く見えた。
常念岳(2857m)の左奥にちらりと尖った山が見えるのが、槍ヶ岳(3180m)。
乗鞍岳(3026m)
南側 中央の大きな黒っぽいビルの右背後にある山々が中央アルプス。
東側
北側 中央やや左の道路を奥に行くと、グレーの屋根の国宝 開智学校がある。
御座の間(天守四階)書院造り風で、いざと言う時の御座所。天井が高く、四方から光が入り、柱は全て桧でかんながけされている。
月見櫓 月見をするための櫓で、北・東・南の舞良戸を外すと三方が吹き抜けになる。朱塗の回廊や舟形天井などは、天守などには見られない造り。月見櫓を三代将軍の家光をもてなす為に増設された。しかし、実際には急遽家光の予定が変わり、松本城には来なかったとのこと。。。
太鼓門 文禄4年(1595年)頃に築かれ、太鼓楼があり、時・登城・火急の合図などを行っていた平成11年に復元。櫓門の横の石は鏡石で、特に大きな石を縦に積み、城主の権威を見せつける為の巨石。
狭間(はざま)がある。△の穴は、膝をついて鉄砲を撃つのに便利な高さとなっており、縦に長い長方形の穴は、弓矢を射る為の場所。
二の丸御殿跡 本丸御殿焼失後、幕末まで中枢機関とされた。
豊臣秀吉の家臣である石川数正が城主となり、関東地域の対徳川として拡張整備を行った。今はもう見られない織田信長や豊臣秀吉の城の後継で、今に唯一残っている松本城は、なるほど国宝。
お城のすぐ北側にある松本神社にも、枯れることなく湧き出てくる井戸があった。
さすがは城下町。なまこ壁など、なかなか風情がある。
この後は、美ヶ原高原へ。その様子は追って。
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