迎賓館赤坂離宮に見学に行った。その外観に引き続き、内観を。
外観の様子は:
かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった場所に、明治42年(1909年)東宮御所として建てられた。日本で唯一のネオバロック様式の西洋宮殿。戦後は国に移管され、昭和49年(1974年)に迎賓館に。(あいにく内部は撮影禁止の為、画像はHPから)
建築の総指揮をとった片山東熊氏は、明治29年に東宮御所の造営の為に欧米に。帰国後明治31年に設計に着手。京都国立博物館、伊勢神宮の徴古館などを既に造っていたが、アメリカの鉄を買い付ける為にシカゴに向かい、鉄骨設計者などに会い、東宮御所の模型を見せて、鉄3000トン購入の交渉を行った。日本で初めての鉄骨建築。最大1.8メートルの壁。煉瓦と石による。
正面玄関 市松模様の白は創建当時からのイタリア産大理石ビアンコ・カララ、黒は昭和になり貼り替えられた宮城県産の玄昌石。
大ホール 8本のコリント式の円柱はイタリア産大理石のブレッシュ・ビオレット。
朝日の間の入口両脇には、小磯良平氏の「音楽」と「絵画」の油彩画。
朝日の間(第一客室)要人の表敬訪問や首脳会談や、国賓が天皇皇后両陛下と別れの挨拶をする間。ルイ16世様式。平成27年には28人の絵画修復のプロが天井画を補修。シャンデリアもパーツを外して洗浄。絨毯も新しく。
部屋の名前の由来となった天井画は、朝日を背にした女神の絵画。左手に月桂樹の枝、右手に手綱を握って4頭立ての馬車で天空を駆けている様子。
彩鸞の間(第二客室) 賓客が最初に案内される控えの間。総理大臣による外国元首との首脳会談や条約調印にも使われる。室内はアンビール様式とのこと。
戦後は、弾劾裁判の部屋となっていた。修復前は、カーテンがボロボロで下がっていて、雨漏りも酷く、内部の煉瓦が見えていた。壁をはがして塗り直すと言う作業から始まったのだそう。金色の鳥のレリーフは、古代中国の想像上の鳥である「鸞(らん)」で、国が平和で栄えている時に現れるとされている。
家具の脚は、ライオンの脚。ナポレオン1世の帝政時代の華やかさとのこと。
天井は、フランス人画家による油彩画24枚と、金箔に模様を描いた12枚の絵からなる。天井の木目塗りと言う技法(しっくいの上から塗料を塗る)の技術者はもうおらず、板を貼り付けて修復。
フランス製の食器棚には、扉のつなぎや、窓の取っ手にも女性が象られている。昭和の改修で、図案はそのままにして、3年1ヶ月をかけてゴブラン織から京都西陣のつづれ錦に変更された。
おまけ画像として:
不思議なのは、「東の間」が公開されていないこと。かつての喫煙室だったそうだが、ムーリッシュ様式。ヨーロッパの宮殿には一部屋用意されている様式の部屋で、スペインのアンダルシア地方のムーア人による独特の文化の部屋。グラナダのアルハンブラ宮殿を手本に。日本にこんな部屋があったとは!
外観の様子は:
建築の総指揮をとった片山東熊氏は、明治29年に東宮御所の造営の為に欧米に。帰国後明治31年に設計に着手。京都国立博物館、伊勢神宮の徴古館などを既に造っていたが、アメリカの鉄を買い付ける為にシカゴに向かい、鉄骨設計者などに会い、東宮御所の模型を見せて、鉄3000トン購入の交渉を行った。日本で初めての鉄骨建築。最大1.8メートルの壁。煉瓦と石による。
正面玄関 市松模様の白は創建当時からのイタリア産大理石ビアンコ・カララ、黒は昭和になり貼り替えられた宮城県産の玄昌石。
大ホール 8本のコリント式の円柱はイタリア産大理石のブレッシュ・ビオレット。
朝日の間の入口両脇には、小磯良平氏の「音楽」と「絵画」の油彩画。
朝日の間(第一客室)要人の表敬訪問や首脳会談や、国賓が天皇皇后両陛下と別れの挨拶をする間。ルイ16世様式。平成27年には28人の絵画修復のプロが天井画を補修。シャンデリアもパーツを外して洗浄。絨毯も新しく。
部屋の名前の由来となった天井画は、朝日を背にした女神の絵画。左手に月桂樹の枝、右手に手綱を握って4頭立ての馬車で天空を駆けている様子。
壁には、緑色の紋ビロード織
彩鸞の間(第二客室) 賓客が最初に案内される控えの間。総理大臣による外国元首との首脳会談や条約調印にも使われる。室内はアンビール様式とのこと。
戦後は、弾劾裁判の部屋となっていた。修復前は、カーテンがボロボロで下がっていて、雨漏りも酷く、内部の煉瓦が見えていた。壁をはがして塗り直すと言う作業から始まったのだそう。金色の鳥のレリーフは、古代中国の想像上の鳥である「鸞(らん)」で、国が平和で栄えている時に現れるとされている。
家具の脚は、ライオンの脚。ナポレオン1世の帝政時代の華やかさとのこと。
ライオンと甲冑
明治大正期の日本画家である渡辺省亭の下絵を、七宝作家の濤川惣助が焼いた七宝焼きの30枚が壁にある。黒田清輝(当時33歳)がその選定にあたっていて、その下絵が東京国立博物館にある。荒木寛畝の下絵もあるが、採用されなかった。日本の第一人者で68歳の大家だった荒木寛畝は線描で、渡辺省亭は線描ではない為、より若い黒田清輝が西洋風な若い渡辺省亭を選んだのではないかと言われている。天井は、フランス人画家による油彩画24枚と、金箔に模様を描いた12枚の絵からなる。天井の木目塗りと言う技法(しっくいの上から塗料を塗る)の技術者はもうおらず、板を貼り付けて修復。
フランス製の食器棚には、扉のつなぎや、窓の取っ手にも女性が象られている。昭和の改修で、図案はそのままにして、3年1ヶ月をかけてゴブラン織から京都西陣のつづれ錦に変更された。
羽衣の間(舞踏室) 歓迎式典や晩餐会の招待客に食前酒がふるまわれたり、演奏会が開かれる間。国賓の歓迎行事が雨などで屋外で行われない時に使用される部屋。最も大きなシャンデリア3基があり、330平方メートルで、大きさも最大。フランス18世紀末様式。シャンデリアはフランスバカラ社製で、最も大きく豪華なつくりとなっており、7000点にも及ぶ部品から出来ている。舞踏室らしく、シャンデリアにも楽器や仮面などが付けられている。天井画は、日本の謡曲の「羽衣」の一節をフランス人画家が描いた物で、天女が地上に降り立った様子とのこと。
天女がいるわけではなく、あちこちに羽衣が描かれている。舞踏会に集う淑女を重ね合わせる為に天女は描かれていないとか。。。オーケストラボックスがあるが、実際に舞踏会は行われたことはない。
和洋の楽器のレリーフとなっている。
おまけ画像として:
不思議なのは、「東の間」が公開されていないこと。かつての喫煙室だったそうだが、ムーリッシュ様式。ヨーロッパの宮殿には一部屋用意されている様式の部屋で、スペインのアンダルシア地方のムーア人による独特の文化の部屋。グラナダのアルハンブラ宮殿を手本に。日本にこんな部屋があったとは!
明治天皇が、西洋文化を取り入れ学びたい、皇太子を住まわせる所を、と始まった赤坂離宮。しかし、皇太子夫妻(大正天皇皇后)は住まなかった。霞ヶ関離宮の改修の為に昭和天皇が赤坂離宮へ。しかし3日後に関東大震災が起こる。鉄骨の赤坂離宮は全く被害を受けなかったが、建築の総指揮をとった片山東熊は大正6年に既に亡くなっていてそのことは知らず。赤坂離宮から東宮仮御所と名前を変え、後の昭和天皇皇后が新婚生活を送った。
満州国建国と共に、皇帝溥儀が満州国皇帝となる。再び赤坂離宮と名前を変えた所で溥儀が宿泊。結局、戦前は3回だけしか迎賓として使われていない。
太平洋戦争でも破壊消失はまぬかれ、上皇上皇后両陛下が住んでいたことも。後に、国会の管理下になり、国立国会図書館として一般公開されたこともあり、彩鸞の間が、弾劾裁判の場所となったり、花鳥の間ではシャンデリアに蛍光灯が付けられて1964年の東京オリンピック組織委員会が開かれるなどしていた。
昭和31年エチオピアのハイエセラシエ皇などが来日した際、白金迎賓館が狭いため、迎賓館整備の機運が高まり、池田総理大臣の時に迎賓館を造ることを閣議決定。その後、佐藤首相が、当時は傷みが酷かったが改修して迎賓館とすると。
昭和の大改修工事は、建築家の村野藤吾氏の陣頭指揮のもと行われた。戦時中に外壁の御影石が目立たないように黒く鉛色に汚されていたものを綺麗にすることから。外壁の白い石は茨城原産の真壁石。現在も真壁では石の採掘がされており、改修時には、茨城の石工が呼ばれた。迎賓館の石は、非常に手間のかかる小叩きと言う工法で造られている。昭和43年に、108億円の費用で迎賓・賓客宿泊の為に工事が始まり、6000人の美大学生が動員され、天井画の修復なども行われた。
手摺子と言われる屋根の上の手すりは、焼物で出来ており、600本が焼き直しとなったり、庇は鉄で出来ていて錆でボロボロだったのでステンレスに変更。昭和49年赤坂離宮迎賓館として改修工事終了。そして、新婚時代の5年間に住まわれていた昭和天皇皇后が最初に招かれた。
満州国建国と共に、皇帝溥儀が満州国皇帝となる。再び赤坂離宮と名前を変えた所で溥儀が宿泊。結局、戦前は3回だけしか迎賓として使われていない。
太平洋戦争でも破壊消失はまぬかれ、上皇上皇后両陛下が住んでいたことも。後に、国会の管理下になり、国立国会図書館として一般公開されたこともあり、彩鸞の間が、弾劾裁判の場所となったり、花鳥の間ではシャンデリアに蛍光灯が付けられて1964年の東京オリンピック組織委員会が開かれるなどしていた。
昭和31年エチオピアのハイエセラシエ皇などが来日した際、白金迎賓館が狭いため、迎賓館整備の機運が高まり、池田総理大臣の時に迎賓館を造ることを閣議決定。その後、佐藤首相が、当時は傷みが酷かったが改修して迎賓館とすると。
昭和の大改修工事は、建築家の村野藤吾氏の陣頭指揮のもと行われた。戦時中に外壁の御影石が目立たないように黒く鉛色に汚されていたものを綺麗にすることから。外壁の白い石は茨城原産の真壁石。現在も真壁では石の採掘がされており、改修時には、茨城の石工が呼ばれた。迎賓館の石は、非常に手間のかかる小叩きと言う工法で造られている。昭和43年に、108億円の費用で迎賓・賓客宿泊の為に工事が始まり、6000人の美大学生が動員され、天井画の修復なども行われた。
手摺子と言われる屋根の上の手すりは、焼物で出来ており、600本が焼き直しとなったり、庇は鉄で出来ていて錆でボロボロだったのでステンレスに変更。昭和49年赤坂離宮迎賓館として改修工事終了。そして、新婚時代の5年間に住まわれていた昭和天皇皇后が最初に招かれた。
国賓第一号は1974年アメリカのフォード大統領で、ハナミズキの植樹なども行った。
平成21年(2009年)に工事は終了。
平成21年(2009年)に工事は終了。
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な~が nagacumatz
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