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埼玉の行田に古代蓮の里を見に行った後、
埼玉にある「さきたま古墳公園」に行ってみた。
全く不勉強だったのだが、途中にあった交差点の表示に「埼玉」が「sakitama」とあったので??と思っていたところ、埼玉県行田市大字埼玉(さきたま)と言う住所。このエリアは律令による国郡制度が発足した当初から「前玉(さきたま)郡」となっており、正倉院にある神亀3年(726年)の国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」とある。それが「埼玉郡」となり、明治4年に「埼玉県」と「入間県」を設置することになり、変遷を経て明治9年に現在の埼玉県が定まったのだそう。
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さきたま古墳公園
埼玉(さきたま)古墳群があるので、まずは「さきたま史跡の博物館」へ。現在は8基の前方後円墳と1基の大型円墳があるだけだが、もともとは40基以上あったと推定されている。古墳群は5世紀後半から7世紀初めまでの150年間に造られた。特徴としては、9基の大型古墳が東西450メートル、南北900メートルと言う狭いエリアに築かれ、全ての前方後円墳が全国でも珍しい方形の二重の堀に囲まれていた。

博物館内は、国宝だらけでビックリ。しかも、上のガラス面からはダメだが(不測の事態でガラスが破損するなどを避ける為)横からだと写真撮影も可能! 博物館に行った後で古墳を巡ったが、どの古墳からどれが出土したのか興味深いので、併せて。

稲荷山古墳 最も古く、5世紀後半に造られた。全長120メートル。周囲には長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡っている。前方部は1937年に土取り工事で失われたが、2004年に復原。
稲荷山古墳1
前方後円墳の前方部分から登ってみた。一旦登った後には緩い下りがあり、後円の方に再び登ることが出来る。
稲荷山古墳2
発掘されたお墓の様子
稲荷山古墳3
後円側から前方を見る。左側の奥に見えるのは、将軍山古墳。
稲荷山古墳4
稲荷山古墳から出土した国宝の金錯銘鉄剣には、両面に文字が書かれている。昭和43年(1968年)に稲荷山古墳後円部の遺体を埋葬した礫郭から出土。金線を埋め込んだ115文字があるが、今でも充分に読める。辛亥の年(471年)にヲワケと言う人物により、代々の系譜と雄略天皇と思われるワカタケル大王に支えた「杖刀人(じょうとうじん)」のリーダーだったと書かれているのだそう。
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文字はないものの、何本もの太刀も。
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稲荷山古墳の後円部には、2カ所埋葬された場所が発見された。舟の形をした礫槨(れきかく)の中に、丸木を2つに割って中をくりぬいた割竹形木棺が置かれていた。帯金具や勾玉(まがたま)などを身に着けた死者が安置され、頭の下には鏡、体の両側に武器、足元に甲が置かれ、棺の周りには馬具や矢や工具があった。もう一つの木棺は粘土で囲んだ粘土槨と言うが、盗掘されていたとのこと。
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稲荷山古墳から出土した須恵器など。須恵器は古墳で埋葬が行われた際に、飲食を伴う儀礼を行う為に用いられた器と考えられている。
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結構大きな入母屋造りの家を模した埴輪まで。
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瓦塚古墳
全長73メートルの前方後円墳。6世紀前半~中頃。他の前方後円墳と同様に周囲には長方形の堀が二重にあった。周辺の中堤には、琴を弾く男子、踊る男女、武人などの人物埴輪、盾形埴輪、家型埴輪など多種の埴輪が立てて並べられていたと推定されている。が、内部は未調査の為、埋葬施設や副葬品などは不明。
瓦塚古墳

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奥の山古墳
6世紀前半建造。地中レーダー探査の結果、後円部墳頂に箱式石棺があると考えられている。
奥の山古墳
高坏(たかつき)などの供え物をする器と、液体を容れる為の「はそう」や壺、甕など、多量の須恵器が出土。
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将軍山古墳 
長さ90メートルの前方後円墳で、6世紀後半代における関東地方の最大級の古墳。埼玉古墳群の中では4番目の大きさ。第四代目の首長の墓ではないかと考えられている。多数の副葬品が出土。横穴式石室の復原を行い、日本で唯一、古墳の内部(埋葬施設)を見学出来る。
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埋葬施設は、上記の稲荷山古墳のように竪穴を掘って遺体を安置する方法だったが、この将軍山古墳は新たに朝鮮半島から伝えられた横穴式石室。石室には何人もの遺体を後から納められるようになっていて、埼玉県では6世紀に入って広くこの方式となった。石室の壁は、約120キロ離れた千葉県富津市でとれる房州石、天井は埼玉県寄居・長瀞周辺でとれる緑泥片岩が使われている。
内部で、古墳の断面を見ることが出来る。既に露出していた将軍山古墳の墳丘断面を剥ぎ取ったもので、褐色の土・暗褐色の関東ローム層・橙色の関東ローム層が交互に積み重なっていることから、墳丘の崩れを防ぐ為にこれらの土を交互に叩きしめながら積み上げられている。
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埋葬の様子を再現してある。
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石室からは、飾太刀、金製勾玉、銅碗、金銅製馬具、馬の冑、蛇行状鉄器などが出土。馬冑は朝鮮半島南部で多く出土し、蛇行状鉄器も高句麗古墳の壁画にも描かれていることから、将軍山古墳に葬られた首長は朝鮮半島と関わりが深い人物と推定されている。
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当時の人馬の様子
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鉄砲山古墳
手前が奥の山古墳、左奥が鉄砲山古墳。
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多量の円筒埴輪と形象埴輪が出土。
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中の山古墳
6世紀末~7世紀初め。長さは79メートル。埼玉古墳群で最後に造られた前方後円墳。
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この時代になると、埴輪の生産が終了していた為、須恵器埴輪壺が出土。円筒埴輪と同様に、墳丘上に立てて並べられていたと考えられているが、関東には他に類例がない。口がラッパ状に開いて底に穴が開いているもので、寄居町末野遺跡の窯で焼かれたもの。
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二子山古墳
 
埼玉県内最大の前方後円墳。

丸墓山古墳 
直径105メートルあり、日本最大級の円墳。未発掘の為に埋葬施設は不明とのこと。墳丘は埼玉古墳群の中では一番高く、約17メートルある。6世紀前半と推定。
丸墓山古墳
将軍山古墳が見える。その間には、いくつもの円墳跡がある。
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稲荷山古墳が見える。そのずっと左奥のタワーは、古代蓮の里。
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忍城(おしじょう) 丸墓山古墳の上からお城が見える。
豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は忍城を水攻めにし、その際に城がよく見えるこの古墳の上に陣を張ったという伝承が残されている。しかし、その水攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われている。
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古墳へと続く道の一部は、石田三成が水攻めにした時に築いた堤防の跡と言われている「石田堤」。石田堤の総延長は28キロとも14キロとも。
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古墳で有名な仁徳天皇陵などは宮内庁の管轄で研究者すら立ち入れずましてや発掘作業も出来ない為、古墳は登れないものと勝手に思っていたのだが、登ったり中に少しだが入るなど、なかなか面白かった。未発掘の古墳もいくつもあるが、国宝級のお宝は眠っていないのだろうか。

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