石巻から 登米 へ。
奈良時代以前からこの地には「遠山(とおやま)村」という村があり、これが「登米(とよま)」の語源となっている。読みは登米市「とめし」だが、市内の登米町は「とよままち」。
北上川西側の城下町、登米(とよま)町には、明治時代に建造された小学校、県庁、警察署などのハイカラな洋風建築物が残り当時の面影を今に伝えている。とても綺麗ななまこ壁の蔵などが並ぶ。
警察資料館 明治22年(1889年)に建てられ、昭和43年まで使われていた。バルコニーからは船着き場や繁華街を見ることが出来た。
教育資料館(旧登米高等尋常小学校校舎)明治21年(1888年)の建築。洋風の中に部分的に和風技法を取り入れた擬洋風の木造建築。登米に来た目的は、隈研吾氏設計で千住博氏が描いた登米町伝統芸能伝承館森舞台、そして隈研吾氏設計の登米懐古館を見ること。それぞれの詳細は別記事で:
南三陸 へ。
この図でもわかるように津波が広範囲に渡って街を破壊した為、この赤い現在地と書かれている部分や川の西側は、震災復興祈念公園となっており、我々が行った9月時点では未だ完全には完成していなかった。
赤い鉄骨だけの建物は、旧南三陸町庁舎。平均高さが海抜16.5メートルの津波が襲った為、庁舎内にいた職員の方々や避難して来た近隣住民の方々が屋上に逃げたが、10名が助かったものの43名が犠牲に。庁舎の放送室から避難を呼びかけ続けて多くの人達の命を救った24歳の女性職員の方が、生存者の中におられなかったことでもニュースになっていた、あの庁舎。令和13年(2031年)3月10日まで県有化し、その間に震災遺構として保存するかどうか検討するとのこと。現在見ると、我々は非常に高い堤防の上から見ることになるので、この旧庁舎はまるで谷にあるように見えるが、以前は全てこの低い位置に家屋があり、現在はそこに高い盛り土をして道が出来ている。庁舎の左奥に小さな白い高い建物が見えるが、そちらは高野会館で、民間震災遺構となっている。一部4階建てだったおかげで、327人と犬2匹の命が助かったとのこと。
高野会館
横を通る道路から見るとこの高さ。奥に見える白いものは堤防。
本来の地面から見るとこの高さ。
高野会館は、南三陸町の冠婚葬祭場として利用され、震災当日には、高齢者芸能発表会が催されていた。地震発生に伴い帰宅しようとする方々を、屋上横に一部ある4階と屋上に避難させ、屋上も約30センチ浸水したが、全員で夜を過ごし、翌朝、高齢者芸能発表会の出席者、近隣住民、従業員の327名と犬2匹の全員が助かった。震災の風化を防ぐために民間の震災遺構としている。内部も伺い知ることが出来る。
隈研吾氏設計の中橋がかかっている。
中橋の詳細は:
中橋の横には、この10月にオープンした南産リック311メモリアルが、行った時には未だ最終段階の工事中だった。その詳細は:
画像にはない右側に、隈研吾氏設計のさんさん商店街。それらの様子は:
さんさん商店街では、タコやホヤなど色々な魚介類を売っていて、その場でも食べられるようになっていた。
途中で見かけた信号。有事って?
南三陸町のホテル観洋にチェックイン。目の前には志津川湾の荒島が望める。勿論このホテルも被災し2階まで浸水し、上層階に約350名全員が避難。ただし、ライフラインや橋が壊れ完全孤立。復旧後も4ヶ月もの間、水が来なかったそうだが、被災者やボランティアなどの宿泊を受け入れていたとのこと。
温泉のお風呂が色々とある。曇りなのが残念だったが、もし青空だったら青い海と空をお風呂からもっと楽しめたと思う。
部屋の前の欄干には、ウミネコが多数やって来ていた。色の黒いものは幼鳥。後方に見えるのは高野会館。
夕食を。
前菜 平目煮凝り、蛸松葉串、鯖芋酢、鰹みぞれ煮、銀鮭南蛮漬け
お造り 鮪、メカジキ、宮城サーモン、帆立、白牡丹海老
みやぎサーモンタルタル ピーマンソース
蓋物 フカヒレ姿煮
焼物 鮑の踊り焼き
北寄貝
酢の物 炙り秋刀魚 海藻煮凝り
追加でお願いした鰹のたたきとお造り
追加でお願いしたほやの天ぷら 茄子の天ぷらも付く。
海鮮釜飯
水菓子、デザート

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奈良時代以前からこの地には「遠山(とおやま)村」という村があり、これが「登米(とよま)」の語源となっている。読みは登米市「とめし」だが、市内の登米町は「とよままち」。
北上川西側の城下町、登米(とよま)町には、明治時代に建造された小学校、県庁、警察署などのハイカラな洋風建築物が残り当時の面影を今に伝えている。とても綺麗ななまこ壁の蔵などが並ぶ。
警察資料館 明治22年(1889年)に建てられ、昭和43年まで使われていた。バルコニーからは船着き場や繁華街を見ることが出来た。
教育資料館(旧登米高等尋常小学校校舎)明治21年(1888年)の建築。洋風の中に部分的に和風技法を取り入れた擬洋風の木造建築。
南三陸 へ。
この図でもわかるように津波が広範囲に渡って街を破壊した為、この赤い現在地と書かれている部分や川の西側は、震災復興祈念公園となっており、我々が行った9月時点では未だ完全には完成していなかった。
赤い鉄骨だけの建物は、旧南三陸町庁舎。平均高さが海抜16.5メートルの津波が襲った為、庁舎内にいた職員の方々や避難して来た近隣住民の方々が屋上に逃げたが、10名が助かったものの43名が犠牲に。庁舎の放送室から避難を呼びかけ続けて多くの人達の命を救った24歳の女性職員の方が、生存者の中におられなかったことでもニュースになっていた、あの庁舎。令和13年(2031年)3月10日まで県有化し、その間に震災遺構として保存するかどうか検討するとのこと。現在見ると、我々は非常に高い堤防の上から見ることになるので、この旧庁舎はまるで谷にあるように見えるが、以前は全てこの低い位置に家屋があり、現在はそこに高い盛り土をして道が出来ている。庁舎の左奥に小さな白い高い建物が見えるが、そちらは高野会館で、民間震災遺構となっている。一部4階建てだったおかげで、327人と犬2匹の命が助かったとのこと。
高野会館
横を通る道路から見るとこの高さ。奥に見える白いものは堤防。
本来の地面から見るとこの高さ。
高野会館は、南三陸町の冠婚葬祭場として利用され、震災当日には、高齢者芸能発表会が催されていた。地震発生に伴い帰宅しようとする方々を、屋上横に一部ある4階と屋上に避難させ、屋上も約30センチ浸水したが、全員で夜を過ごし、翌朝、高齢者芸能発表会の出席者、近隣住民、従業員の327名と犬2匹の全員が助かった。震災の風化を防ぐために民間の震災遺構としている。内部も伺い知ることが出来る。
隈研吾氏設計の中橋がかかっている。
中橋の詳細は:
中橋の横には、この10月にオープンした南産リック311メモリアルが、行った時には未だ最終段階の工事中だった。その詳細は:
画像にはない右側に、隈研吾氏設計のさんさん商店街。それらの様子は:
さんさん商店街では、タコやホヤなど色々な魚介類を売っていて、その場でも食べられるようになっていた。


途中で見かけた信号。有事って?
南三陸町のホテル観洋にチェックイン。目の前には志津川湾の荒島が望める。勿論このホテルも被災し2階まで浸水し、上層階に約350名全員が避難。ただし、ライフラインや橋が壊れ完全孤立。復旧後も4ヶ月もの間、水が来なかったそうだが、被災者やボランティアなどの宿泊を受け入れていたとのこと。
温泉のお風呂が色々とある。曇りなのが残念だったが、もし青空だったら青い海と空をお風呂からもっと楽しめたと思う。
部屋の前の欄干には、ウミネコが多数やって来ていた。色の黒いものは幼鳥。後方に見えるのは高野会館。


夕食を。


前菜 平目煮凝り、蛸松葉串、鯖芋酢、鰹みぞれ煮、銀鮭南蛮漬け
お造り 鮪、メカジキ、宮城サーモン、帆立、白牡丹海老
みやぎサーモンタルタル ピーマンソース
蓋物 フカヒレ姿煮
焼物 鮑の踊り焼き
北寄貝
酢の物 炙り秋刀魚 海藻煮凝り
追加でお願いした鰹のたたきとお造り
追加でお願いしたほやの天ぷら 茄子の天ぷらも付く。
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コメント
コメント一覧 (2)
ヤッパリ 後世に伝えるために 残すべきかなぁ・・・
登米って知りませんでした(^^;
風情のある建築物ですね
な~が nagacumatz
が
しました