八戸のホテルをチェックアウトして 十和田市 へ。
お蕎麦の花が一面に咲いていた。
十和田市では、十和田市現代美術館の常設展、名和晃平展、建築の観点からの西沢立衛氏の設計による十和田市現代美術館、安藤忠雄氏設計の十和田市図書館、隈研吾氏設計の十和田市民交流プラザトワーレを見学。
戦前に旧陸軍軍馬補充部があった官庁街通りは「駒街道」と言われている為、蹄鉄模様が路面にあったり、通り沿いの歩道には蹄鉄のオブジェや馬の像などが置かれていたり。
十和田市役所前には、大きな蹄鉄と、ワイヤーで作った馬のオブジェがある。
路面に埋まった蹄鉄のオブジェを良く良く見ると、蹄鉄の縁には町並みが再現されている。
鞍のオブジェがあるかと思いきや、車止めの上にもお馬さん、ポストの上にもお馬さん、お手洗いの壁などにもお馬さん。
そんな官庁街通り(駒街道)に交差する国道102号は、アーケードが付いているが、ちょうどその角に、我々が訪れた時にはオープン(9月20日)前の藤本壮介氏設計の十和田市地域交流センター 「とわふる」がほぼ出来上がっていた。
十和田市民文化センターの前には、D51-663蒸気機関車が。
十和田市を後にして、北上。途中で、八甲田山がとても綺麗に見えた。
小川原湖の北側を。
六ヶ所村近くになると、風車がたくさん。
そして熊さんご用心看板💦
陸奥湾を見渡たしながら北上。
ハマナスが綺麗だった。
恐山の霊場に近くなって来ると、道沿いにお地蔵さん達が。殆どがほっかむり?をしている。
恐山霊場エリアに到着。三大霊場のひとつ。他は、比叡山と高野山。年間20万人がお参りに来る。
この太鼓橋は三途の川にかかっている。現在は老朽化で、三途の川は建替えの最中。左側(入口側)の現世から渡ることになるのだが、逆に渡ると長生きすると言われているのだそう😂
境内のど真ん中に温泉風呂があるが、お風呂が恐山の始まり。70°の源泉を適温に調整しており、昔は湯治場。温泉を発見し、その後修験者が入ってきて信仰の場となり、1530年になって曹洞宗のお寺が管理することになった。昔は建物もなく混浴の露天だった。今現在は男女分かれて屋内となっており、入山料の500円でお風呂は入り放題とのこと。
少し登った所から見下ろすと、宇曾利山湖などを綺麗に見ることが出来た。
未だ硫化水素が出ており、硫黄の匂いがしっかりしている。金属が腐食しやすく、パソコンが3ヶ月で壊れるのだそう。
手ぬぐいやわらじが枝に結ばれていた。黄泉の国と繋がっていると考えられ、その道のりは長いので汗を拭く為の手ぬぐいや、切れてしまうだろうからと予備のわらじがお供えされている。ただし、30~40年前にはこれらは殆どなく、誰かが始めたら他の人もやり、お寺がやれとも言っていないが、亡くなった人に何かをしてあげたいと言う思いを受け止めて来たことこそが霊場と言われる所以と。
平らなエリアは賽の河原。右側中程の点々と小さな山になっているのは、人が石を積んだもの。お寺が積んだり積んでほしいとも言っていないが、来訪者があの世とこの世の境界で、親より子供が先に亡くなった時に子供の魂がとどまり、親と自分自身の為に石を積んだと考えられている為、参拝者が、死者を思って石を積むようになった。
開けた先に湖があるが、開けたエリアもかつて湖で、細かい砂などが溜まって、崖崩れで水路から水が流れ出ないで水位があがってしまい、後に別の水路が出来て、再び水位が下がった為、平らな賽の河原が出来た。因みに、別の水の出口が、現在の三途の川となっている。
右側の賽の河原のそばにあるのは地蔵堂。賽の河原のお地蔵様には言い伝えがあり、夜に雨が降った翌朝にお詣りに来るとお地蔵様の裾が濡れており、夜の間にお地蔵様が賽の河原に出向き、嘆き悲しんでいる霊を救いに行っていたと。
エメラルドグリーンの湖に白砂の浜は極楽浜。湖底から強酸性の噴気があり、ペーハーPHは 2.7 でレモン汁ぐらいの酸性の為、魚やバクテリアすらも生息しづらく、魚は強酸性に強いウグイぐらいとのこと。白い砂浜は、透明な粒である石英を多く含むデイサイトなるマグマが冷え固まった火山岩による。激しい噴気の為に、石英以外の鉱物は白く変質し、もろくなった上、強酸性の水に洗われて石英が残った。境内全体にデイサイトが分布しているが、極楽浜だけ風化変質に強い石英だけが残って白い浜となった。
恐山を後にして、青森市へ。さすがりんごの産地でちょうど収穫期だったこともあり、コンビニでも品種別のカットリンゴがあったり、せんべい汁用などの南部煎餅も普通に売っていた。
青森市内では、偶然にも青木野枝氏作品を見た。その詳細は:

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お蕎麦の花が一面に咲いていた。
十和田市では、十和田市現代美術館の常設展、名和晃平展、建築の観点からの西沢立衛氏の設計による十和田市現代美術館、安藤忠雄氏設計の十和田市図書館、隈研吾氏設計の十和田市民交流プラザトワーレを見学。
戦前に旧陸軍軍馬補充部があった官庁街通りは「駒街道」と言われている為、蹄鉄模様が路面にあったり、通り沿いの歩道には蹄鉄のオブジェや馬の像などが置かれていたり。
十和田市役所前には、大きな蹄鉄と、ワイヤーで作った馬のオブジェがある。
路面に埋まった蹄鉄のオブジェを良く良く見ると、蹄鉄の縁には町並みが再現されている。
鞍のオブジェがあるかと思いきや、車止めの上にもお馬さん、ポストの上にもお馬さん、お手洗いの壁などにもお馬さん。
そんな官庁街通り(駒街道)に交差する国道102号は、アーケードが付いているが、ちょうどその角に、我々が訪れた時にはオープン(9月20日)前の藤本壮介氏設計の十和田市地域交流センター 「とわふる」がほぼ出来上がっていた。
十和田市民文化センターの前には、D51-663蒸気機関車が。
十和田市を後にして、北上。途中で、八甲田山がとても綺麗に見えた。
小川原湖の北側を。
六ヶ所村近くになると、風車がたくさん。
そして熊さんご用心看板💦
陸奥湾を見渡たしながら北上。
ハマナスが綺麗だった。
恐山の霊場に近くなって来ると、道沿いにお地蔵さん達が。殆どがほっかむり?をしている。
恐山霊場エリアに到着。三大霊場のひとつ。他は、比叡山と高野山。年間20万人がお参りに来る。
この太鼓橋は三途の川にかかっている。現在は老朽化で、三途の川は建替えの最中。左側(入口側)の現世から渡ることになるのだが、逆に渡ると長生きすると言われているのだそう😂
総門
山門
境内のど真ん中に温泉風呂があるが、お風呂が恐山の始まり。70°の源泉を適温に調整しており、昔は湯治場。温泉を発見し、その後修験者が入ってきて信仰の場となり、1530年になって曹洞宗のお寺が管理することになった。昔は建物もなく混浴の露天だった。今現在は男女分かれて屋内となっており、入山料の500円でお風呂は入り放題とのこと。

死者と会えると考えて祈りをささげてきた場所。昔から「死ねば、お山さ、行くだ」と言われていて、お山=恐山だった。恐山と言うとイタコを連想するが、死者の言葉を伝える恐山のイタコは実は昭和30年代以降の人達で、歴史的背景はないのだそう。
宇曾利山湖はカルデラ湖で、27万年前の大規模な噴火によるもの。今でも、水蒸気の中には硫化水素も含まれており、噴気活動が行われている為に草木が生えない。まとまった噴気があるのは、現在のお寺があるエリアのみ。噴気は程良く、植物は育たないものの人は近づける程度となっている。異様な岩ばかりで植物が生えていない景観から、死者と会えると考えたと想像されるとのこと。
本堂の裏の山側にある奥の院に行こうと思ったのだが、こんな看板に躊躇してしまった💦


少し登った所から見下ろすと、宇曾利山湖などを綺麗に見ることが出来た。
未だ硫化水素が出ており、硫黄の匂いがしっかりしている。金属が腐食しやすく、パソコンが3ヶ月で壊れるのだそう。




手ぬぐいやわらじが枝に結ばれていた。黄泉の国と繋がっていると考えられ、その道のりは長いので汗を拭く為の手ぬぐいや、切れてしまうだろうからと予備のわらじがお供えされている。ただし、30~40年前にはこれらは殆どなく、誰かが始めたら他の人もやり、お寺がやれとも言っていないが、亡くなった人に何かをしてあげたいと言う思いを受け止めて来たことこそが霊場と言われる所以と。
平らなエリアは賽の河原。右側中程の点々と小さな山になっているのは、人が石を積んだもの。お寺が積んだり積んでほしいとも言っていないが、来訪者があの世とこの世の境界で、親より子供が先に亡くなった時に子供の魂がとどまり、親と自分自身の為に石を積んだと考えられている為、参拝者が、死者を思って石を積むようになった。
開けた先に湖があるが、開けたエリアもかつて湖で、細かい砂などが溜まって、崖崩れで水路から水が流れ出ないで水位があがってしまい、後に別の水路が出来て、再び水位が下がった為、平らな賽の河原が出来た。因みに、別の水の出口が、現在の三途の川となっている。
右側の賽の河原のそばにあるのは地蔵堂。賽の河原のお地蔵様には言い伝えがあり、夜に雨が降った翌朝にお詣りに来るとお地蔵様の裾が濡れており、夜の間にお地蔵様が賽の河原に出向き、嘆き悲しんでいる霊を救いに行っていたと。
エメラルドグリーンの湖に白砂の浜は極楽浜。湖底から強酸性の噴気があり、ペーハーPHは 2.7 でレモン汁ぐらいの酸性の為、魚やバクテリアすらも生息しづらく、魚は強酸性に強いウグイぐらいとのこと。白い砂浜は、透明な粒である石英を多く含むデイサイトなるマグマが冷え固まった火山岩による。激しい噴気の為に、石英以外の鉱物は白く変質し、もろくなった上、強酸性の水に洗われて石英が残った。境内全体にデイサイトが分布しているが、極楽浜だけ風化変質に強い石英だけが残って白い浜となった。
東日本大震災供養塔
火山活動により、地獄のような景色と極楽のような景色を作り上げた。風車や花束やお供えが置かれ、死者の供養に来る場所となり、魂呼(たまよび)と言われる、亡くなった方の名前を自然発生的に呼ぶようになったのだそう。
恐山を後にして、青森市へ。さすがりんごの産地でちょうど収穫期だったこともあり、コンビニでも品種別のカットリンゴがあったり、せんべい汁用などの南部煎餅も普通に売っていた。
青森市内では、偶然にも青木野枝氏作品を見た。その詳細は:

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コメント
コメント一覧 (2)
屋根付きではありますが 気候が厳しそう・・・
野ざらしのまま腐食が進んで解体処分もアチコチで(ノД`)
な~が nagacumatz
が
しました