この10月に丸の内に移転した静嘉堂文庫美術館の「静嘉堂創設130周年・新美術館開館記念展 響きあう名宝 ー曜変・琳派のかがやきー」展へ。
三菱創業者の岩﨑弥太郎の弟で、第二代社長の岩﨑彌之助(1851~1908)とその息子の第四代社長岩﨑小彌太(1879~1945)がコレクションをしたもの。岩﨑彌之助が自宅に文庫を開設したのが始まりで、恩師である漢学者で実証主義を提唱していた重野成斎を助ける為に、重要文化財の南宋時代(12世紀)の重要文化財の「李太白文集」などを購入(前期の公開で見られず💧)。清朝末期の動乱期で、明治40年に4万4000冊をまとめ買いを。廃刀令により日本の名刀が海外に流出するのを防ぐ為に刀剣なども収集した。
ロンドンを彷彿とさせる丸の内にオフィスだけでなく美術館も構想。富めるものの使命は市民に還元させるとことした米国のカーネギーの影響を受け、明治25年(1892年)にジョサイヤ・コンドルに美術館の設計を描かせたが、美術館構想は実らず。息子の小彌太が、世田谷区岡本に、父の三回忌にジョサイヤ・コンドル設計の岩﨑家玉川霊廟を明治43年(1910年)に建てる。そして文庫を、櫻井小太郎設計で大正13年(1924年)に移設。美術品の公開を目指した。そして今回、世田谷から丸の内へと130年経って、美術館が当初計画されていた丸の内に出来たことになる。展示室面積も1.5倍に増えたとのことだが、決して広くない。チケットは完売になっていることもあって、当日券に並ぶ方の列があり、我々は初回の10時に入ったので余裕があったものの、以降は結構な混雑ぶり。
7件の国宝、84件の重要文化財、約20万冊におよぶ古典籍約6500点の東洋古美術品を収蔵。前期は7件の国宝が揃っていたが、訪れた後期は4件に💦(上記のホワイエ以外は撮影禁止の為、画像はHPより)
「大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(つくもなす)」 南宋〜元時代 13〜14世紀
明治17年、33歳の彌之助が兄の弥太郎に年末の給与を前借りして買ったもの。700年前に日本に持ち込まれ、足利義満、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の手に渡った。一国一城に値するとも言われている。本能寺の変でも燃えて、慶長20年(1615年)大坂夏の陣で、大坂城と共に灰燼に帰してしまうも、家康の家臣の本多正純の発案で茶入れの捜索をする。焼け跡に、漆職人の藤重藤元・藤巌親子を派遣し、破片を拾わせて漆でつくろわせたもの。9つの茶入れを回収・修復に、3ヶ月で成功したのだそう。
X線でCTスキャン画像を撮ると、大小の破片が細かく、不足部分には漆で補修されていた。胴と肩では、漆を何層にも重ねており、首の形などが変わっており、安土桃山時代と江戸時代初期では好まれる形が異なっていたことがわかる。復元によって新しい価値を生み出したもの。素晴らしい修復に喜んだ家康は、技術を後世に伝えるようにと、付藻茄子を父の藤元に、松本茄子を息子の藤巌に下賜した。
「大名物 唐物茄子茶入 松本(紹鷗)茄子」 南宋〜元時代 13〜14世紀
付藻茄子同様、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が持っていた。こちらも粉々に割れていたとのこと。
沈南蘋「老圃秋容図」清時代・雍正9年(1731)絹本着色
猫が葉にとまっている虫を凝視している。色鮮やかで繊細。若冲なども沈南蘋に学んだとされる。


青花臙脂紅龍鳳文瓶 一対 「大清乾隆年製」銘 景徳鎮官窯 清時代・乾隆年間(1736〜95)
表裏に龍と鳳凰それぞれ一対が向かい合うように描かれた瓶。

本阿弥光悦 草木摺絵新古今集和歌巻 江戸時代 寛永10年(1633年)金泥の摺りに更に金で描かれていて、紙だけでも綺麗。

国宝 手掻包永 「太刀 銘 包永 附:菊桐紋糸巻太刀拵」鎌倉時代 13世紀 (拵:江戸時代 18~19世紀)均一な反りを見せる典雅な姿や「柾目肌」の地鉄、直線的な刃文が特色とのこと。
国宝「曜変天目 (稲葉天目)」南宋時代(12〜13世紀)
福建省の建窯で焼かれた茶碗で、完器は世界に3碗しかなく、全てが日本にあり、全て国宝。(残る2つは、京都の大徳寺龍光院、大阪の藤田美術館) 徳川家光が春日局に与え、子孫の稲葉家に伝来した。
口径は12センチほどと案外小さい。横からも光が当てられているので、外側の釉薬がぽってりとしているのがわかる。釉薬が偶然変化して生まれたもので、現代の技術をもってしてもなかなか難しいとされている。昭和9年に岩﨑小彌太が購入。天下の名器として、使うことはなかったのだそう。
言うまでもなくこの展覧会の目玉作品であり、ポスターなどにもなっているが、画像だからとても綺麗な青色なのかなと思いきや、照明にも工夫をされていて、本当に綺麗な青色や見る角度によっては光沢が異なり、非常に美しかった。
三菱創業者の岩﨑弥太郎の弟で、第二代社長の岩﨑彌之助(1851~1908)とその息子の第四代社長岩﨑小彌太(1879~1945)がコレクションをしたもの。岩﨑彌之助が自宅に文庫を開設したのが始まりで、恩師である漢学者で実証主義を提唱していた重野成斎を助ける為に、重要文化財の南宋時代(12世紀)の重要文化財の「李太白文集」などを購入(前期の公開で見られず💧)。清朝末期の動乱期で、明治40年に4万4000冊をまとめ買いを。廃刀令により日本の名刀が海外に流出するのを防ぐ為に刀剣なども収集した。
ロンドンを彷彿とさせる丸の内にオフィスだけでなく美術館も構想。富めるものの使命は市民に還元させるとことした米国のカーネギーの影響を受け、明治25年(1892年)にジョサイヤ・コンドルに美術館の設計を描かせたが、美術館構想は実らず。息子の小彌太が、世田谷区岡本に、父の三回忌にジョサイヤ・コンドル設計の岩﨑家玉川霊廟を明治43年(1910年)に建てる。そして文庫を、櫻井小太郎設計で大正13年(1924年)に移設。美術品の公開を目指した。そして今回、世田谷から丸の内へと130年経って、美術館が当初計画されていた丸の内に出来たことになる。展示室面積も1.5倍に増えたとのことだが、決して広くない。チケットは完売になっていることもあって、当日券に並ぶ方の列があり、我々は初回の10時に入ったので余裕があったものの、以降は結構な混雑ぶり。
7件の国宝、84件の重要文化財、約20万冊におよぶ古典籍約6500点の東洋古美術品を収蔵。前期は7件の国宝が揃っていたが、訪れた後期は4件に💦(上記のホワイエ以外は撮影禁止の為、画像はHPより)
「大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(つくもなす)」 南宋〜元時代 13〜14世紀
明治17年、33歳の彌之助が兄の弥太郎に年末の給与を前借りして買ったもの。700年前に日本に持ち込まれ、足利義満、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の手に渡った。一国一城に値するとも言われている。本能寺の変でも燃えて、慶長20年(1615年)大坂夏の陣で、大坂城と共に灰燼に帰してしまうも、家康の家臣の本多正純の発案で茶入れの捜索をする。焼け跡に、漆職人の藤重藤元・藤巌親子を派遣し、破片を拾わせて漆でつくろわせたもの。9つの茶入れを回収・修復に、3ヶ月で成功したのだそう。
X線でCTスキャン画像を撮ると、大小の破片が細かく、不足部分には漆で補修されていた。胴と肩では、漆を何層にも重ねており、首の形などが変わっており、安土桃山時代と江戸時代初期では好まれる形が異なっていたことがわかる。復元によって新しい価値を生み出したもの。素晴らしい修復に喜んだ家康は、技術を後世に伝えるようにと、付藻茄子を父の藤元に、松本茄子を息子の藤巌に下賜した。
「大名物 唐物茄子茶入 松本(紹鷗)茄子」 南宋〜元時代 13〜14世紀
付藻茄子同様、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が持っていた。こちらも粉々に割れていたとのこと。
沈南蘋「老圃秋容図」清時代・雍正9年(1731)絹本着色
猫が葉にとまっている虫を凝視している。色鮮やかで繊細。若冲なども沈南蘋に学んだとされる。

余崧「百花図巻」(部分)清時代・乾隆60年(1795)全長は5メートルもある。とても色鮮やかで綺麗だった。

青花臙脂紅龍鳳文瓶 一対 「大清乾隆年製」銘 景徳鎮官窯 清時代・乾隆年間(1736〜95)
表裏に龍と鳳凰それぞれ一対が向かい合うように描かれた瓶。

本阿弥光悦 草木摺絵新古今集和歌巻 江戸時代 寛永10年(1633年)金泥の摺りに更に金で描かれていて、紙だけでも綺麗。
伝 尾形光琳 「鶴鹿図屏風」 木の幹などに、たらしこみが施されている。鶴の脚は、上から全体に金粉が撒かれていた。


重要文化財 尾形光琳「住之江蒔絵硯箱」江戸時代・18世紀
本阿弥光悦のデザインをもとにして、尾形光琳デザインし、蒔絵師が作った。金蒔絵、島は鉛、文字は銀、と光悦に学んでいる。百人一首の歌からイメージをしている。展示はされていなかったが、箱書きには、本阿弥光悦のデザインを模していると書いてあるのだとか。歌には「岸」と「波」があるが、文字は省かれ、デザインで表している。
酒井抱一 「絵手鏡」 江戸時代19世紀 小色紙72枚を貼り合わせたアルバム状のものなのだが、前期の蛙やカボチャの画像はHPにあったのだが、後期に見た茄子・布袋さん・こおろぎなどの画像は見つからず💦
酒井抱一「波図屏風」 江戸時代・文化12(1815)年頃
酒井抱一は姫路藩主の弟で、尾形光琳の画風を継承した江戸琳派の祖。琳派と言えば、金地だと思われているが、これは銀地。俵屋宗達や尾形光琳は金地=太陽の画家だったが、酒井抱一は銀地の美しさを発見。銀地=月光を描いている。銀地に墨の線のみ。抱一は、依頼主からは草花の絵を依頼されたが、尾形光琳の「波濤図屏風」(NYメトロポリタン美術館蔵)に影響を受けて描いた自慢の作だから受け取ってほしいと依頼主に手紙を書いている。 とても太い線で荒々しくダイナミックに描かれていて、他の酒井抱一の作品とは全然雰囲気が違う。
左:原羊遊斎「雪華蒔絵印籠」下絵:酒井抱一 黒漆地に金蒔絵で雪の結晶の模様を散らした印籠。
右:原羊遊斎 下絵:酒井抱一「秋草虫蒔絵象嵌印籠」下絵:酒井抱一 鹿だけでも非常に精巧に出来ているが、蛍なども描かれている。
「三彩鴨形容器」唐時代 7~8世紀
唐時代、三彩(茶・緑・白)が白以外に出て来ただけで凄いことだった。副葬品だったが、1900年代初頭、中国では鉄道の敷設工事が盛んに行われ、お墓を壊した時に出土した副葬品も破壊していたが、唐三彩が良いものとわかり、日本人も購入するようになる。岩﨑小彌太は唐三彩の一大コレクターだったとのこと。思ったよりも光沢がなく、ざらっとした印象。
「白磁蓮花文輪花水指」 定窯 北宋~金時代(11〜12世紀)
中国河北省の白磁の名窯、定窯で焼成された薄作りの鉢。内外に蓮花文が彫り表されている。加賀藩主前田家の茶道具の水指として伝来。
中国河北省の白磁の名窯、定窯で焼成された薄作りの鉢。内外に蓮花文が彫り表されている。加賀藩主前田家の茶道具の水指として伝来。

雲龍堆朱盒(雲龍文大香合)(「大明宣徳年製」銘)明時代・宣徳年間(1426~36)
国宝 手掻包永 「太刀 銘 包永 附:菊桐紋糸巻太刀拵」鎌倉時代 13世紀 (拵:江戸時代 18~19世紀)均一な反りを見せる典雅な姿や「柾目肌」の地鉄、直線的な刃文が特色とのこと。
国宝 趙孟頫(ちょうもうふ) 「与中峰明本尺牘(ちゅうほうみんぽんにあたうるのせきとく)」 元時代 14世紀 一帖
宋の王族の子孫である趙孟頫を、滅ぼされた元の皇帝のフビライハンが、取り立てて元の役人にした為、趙孟頫は宋の一族からは裏切り者扱いされる。手紙の宛先は、中峰明本と言うお坊さんが天目茶碗で有名な天目山におられ、そのお坊さんに当てて、趙孟頫自身の息子が8歳で亡くなってしまったと言うプライベートな内容の手紙。清朝末期に、広東省にあったが、北京に伝来し、静嘉堂文庫の文庫長で大漢和辞典の編者だった諸橋轍次が購入。
国宝「曜変天目 (稲葉天目)」南宋時代(12〜13世紀)
福建省の建窯で焼かれた茶碗で、完器は世界に3碗しかなく、全てが日本にあり、全て国宝。(残る2つは、京都の大徳寺龍光院、大阪の藤田美術館) 徳川家光が春日局に与え、子孫の稲葉家に伝来した。
口径は12センチほどと案外小さい。横からも光が当てられているので、外側の釉薬がぽってりとしているのがわかる。釉薬が偶然変化して生まれたもので、現代の技術をもってしてもなかなか難しいとされている。昭和9年に岩﨑小彌太が購入。天下の名器として、使うことはなかったのだそう。
言うまでもなくこの展覧会の目玉作品であり、ポスターなどにもなっているが、画像だからとても綺麗な青色なのかなと思いきや、照明にも工夫をされていて、本当に綺麗な青色や見る角度によっては光沢が異なり、非常に美しかった。
会場:静嘉堂文庫美術館
会期:10月1日~12月18日’22
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