アンディ・ウォーホル(1928~1987)の「アンディ・ウォーホル・キョウト」展へ。この展覧会には、およそ200点が展示されているが、出身のピッツバーグにあるアンディ・ウォーホル美術館の所蔵作品のみで構成されており、そのうち100点以上が日本初公開。大規模な展覧会だが、驚いたことに東京などへ巡回はせずに京都でのみ開催。

「自画像」 1986
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銀髪のカツラ姿で有名だが、鉄鋼業の町であるピッツバーグ生まれ。両親はアメリカに働き口を求めてやってきたスロバキア人で、14歳の時に父親が死去し、母親と弟の3人家族となる。貧しさと、皮膚の持病による赤い鼻の為に「赤い鼻のアンディ」と呼ばれ容姿にコンプレックスを抱いていた。20代始めにNYでイラストレーターとして働いていたところ、MOMAで靴の商品イラストが取り上げられ、ポップアーティストになろうと決め、20代でVOGUEで採用されるような人気者となった。
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ファクトリーと名付けた工房で連日パーティ三昧で、殆どの作業はアシスタント任せで作品を大量生産しており、政治や社会問題などには言及せず、「僕について知りたければ表面だけ見れば良い、裏側には何もないから」と述べていた。が、それは本当に表面のことだけのようで、、、

「孔雀」1957 
1954年頃、パーティでチャールズ・リザンビーと出会い、孔雀の剥製が飾られた店の軒先で話していたところ、リザンビーが孔雀のいるケンタッキー州の農場で育ったことを知り、翌日には孔雀の剥製をプレゼントしたとのこと。1956年に、二人は世界一周旅行に出かけ、日本にも滞在。
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「翼のある妖精」1956年頃
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「蝶々のケーキ」1959
特徴的な「プロッテド・ライン(にじみ線)」の技法を用いた作品。50年代に商業デザインの仕事をする時に使用した技法で、似たような絵柄でさまざまなバリエーションを作ることが出来た。
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「アイスクリームデザート」1959年頃
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「ゴールド・ブック」1957
世界一周旅行後、アジアの金細工に触発されたのか、金の使用が目立つようになる。日本での滞在時には、清水寺でのスケッチなど、京都でのスケッチが一番多い。
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左:「神奈川沖波裏(北斎に倣って)」1980~87、右:「波」1986
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「花」1974
来日時に生け花を描いた手彩色のスクリーンプリントも。
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「花」シリーズ
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シルクスクリーン:
もとになる図柄を転写するのだが、まず遮光性のあるフィルムに写真を焼き付け、その上に写真現像に使う感光剤を塗ったメッシュのスクリーンを載せ感光させる。感光剤を水で流し落とし原板が出来る。もとはシルクで出来たスクリーンを用いたので、「シルクスクリーン」と言われるようになった。布地に色を塗り、その上にシルクスクリーンの原板を載せて刷ると言う方法。

「3つのマリリン」1962
1962年に36歳で亡くなったマリリン・モンローのことをきっかけに、マリリン・モンローの作品を作り出す。映画「ナイアガラ」の宣伝用スチル写真をトリミングしたものをもとにしているが、影や輪郭がやや異なる。制作にはシルクスクリーンの技法を用い、インクの乗せ方や刷った時の力加減によってにじみが異なるようにしている。意図的にかすれなどの差を作り、「ビジネス・アート」と呼んだ。シルクスクリーンの技法で、絵の具と筆で描くという常識を覆した為、美術界からは冒涜として批判されたが、大衆は好むことに。
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「ジャッキー」1964
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「キャンベルスープ」 1968
アメリカで広く親しまれ、貧しかったウォーホルの家の食卓を支えたのがこのスープ缶だった。確信犯的に作家としての個性は出さずに制作。大量生産で物が溢れていた時代背景のもと、作品の大量生産品も好んだが、「大統領が飲むコーラもホームレスが飲むコーラも一緒だ」と。ありふれた商品を題材にして、民主主義の理想とは言及しなかったものの、みな平等と言うことを示しているとのこと。発表時は、商品広告のように、ラベルは異なるスープ缶を32個も並べ、アートの概念を打ち壊した。1956年に、京都の三十三間堂の1000体のそれぞれが異なる観音像を見たことが、繰り返し絵柄を魅せていくポップアートの手法に大きな影響を及ぼしたとされている。
「ブリロの箱」1964
1963年から、「ブリロの箱」「ハインツ・トマトケチャップの箱」などさまざまな箱の彫刻の制作を開始。
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シルベスター・スタローン、アレサ・フランクリン、そして坂本龍一まで!
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上段左から:ラリー・ブーンズ、ロイ・リキテンシュタイン、ドナルド・ジャッド、ロバート・モリス
下段左から:ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ 全て1967
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「アーティストの肖像」
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「銀の雲」
会場には、映像や人がシルエットに映し出される中、銀色の風船を自由にポンポンと触ることが出来る。ウォーホルのトレードマークのシルバーウィッグは、60年代半ばにアルミホイルで包まれた「シルバー・ファクトリー」スタジオに合わせて、茶色のウィッグに銀の塗料をスプレーしたもので、そのシルバーに因み、四角い風船型の「浮かぶ絵画」は、1966年にギャラリーで展示されたもの。
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スクリーンテストのボブ・ディラン、サルバドール・ダリ、岸田今日子、イーディ・セジウィック、仲谷昇。1964~1966 この作品は以前に何処かで見たのだが、思い出せない💦
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「静物(ハンマーと鎌)」シリーズ 1977年頃 
1976年にイタリアへの旅行時に、旧ソビエト連邦の国旗にあるこのシンボルの落書きを目にする。共産主義体制下でハンマーと鎌は、工場労働者と農民の団結を意味していたが、民主主義国家になったイタリアで見た落書きは、ウォーホルにはポップなものとして捉えられたのだそう。

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「病院」1963
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「ギャングの葬式」1963
1962年のライフ誌にあった記事に、ソーントン・ワイルダーの戯曲「わが町」と88歳で亡くなった老女の葬儀の写真が掲載されていた。その記事の意味は、フォトジャーナリズムが、いかに芸術(芝居)に迫るかを示すことだったのだが、ウォーホルはまるでフェイクニュースのようにピンク色で全く異なるタイトルを付けてイメージを新しく作ったとのこと。
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エイズにより友人などが亡くなっていくことから、死は誰にでも平等に訪れるものとして、30代半ばから3年間「死と惨事」シリーズを制作。

「ツナ缶の惨事」1963 ツナ缶を食べて2人の女性がなくなったことから着想を得たもの。押収された商品:漏出が死を招いたのか。。。と言う文字も。
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左は「小さな電気椅子」1964-65、右は「死者5名」1963 
右の緑のものは、車が横転した様子だが、現場をとらえた報道写真をもとにしており、亡くなった方の顔などもリアル。
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「影 I 」1979 
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80年代から人種問題により踏み込んでいく。ジャン・ミシェル・バスキアの影響を受けて筆で描くようにも。差別に遭う黒人アーティストをサポートしていく。
ウォーホル自身も1983年にエイズが発見され、恋人や仲間をエイズで亡くすが、当時は偏見で見られており、ウォーホルがエイズであることも長い間タブーとされていたのだそう。
「自由の女神」1986
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「カモフラージュ」1986
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「最後の晩餐」1986 
9.9メートル、2.9メートルの大作は、亡くなる前年に描かれた。1984年から始まった「最後の晩餐」シリーズは100点以上もあったが、この作品は亡くなるまで手元に置いていた。レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」を基にしているが、一人裏切り者が出ると言われたユダは描かれておらず、大きなキリストの顔や、無罪をうったえる弟子の姿が描かれている。4体あるキリスト像やバイクは手描きで描かれており、シルクスクリーンにはない力強さがある。バイクは天国にのぼる乗り物とし、青く宙に浮いているのはワイズポテトチップスの袋に描かれたフクロウの眼のロゴマーク、軍隊のエンブレムのような赤い鷲、など20世紀のものを配した。6.99とは、6ドル99セントの意味。不安な気持ちを表したアイコンが、6.99。聖書にある悪魔の数字、獣の刻印と言われる6.66の66セント部分をひっくり返して、世間に抗おうと6.99としたかも?説も。ゴシップ記事にAIDS危機を「エイズキャンサー」と表していたこともあり、BIG Cは、キリスト Christ とも、Cancer とも言われている。
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「頭蓋骨のある自画像」1978
頭蓋骨のある自画像 1978

「十字架(ランダム)」1981~82
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会場:京都市京セラ美術館
会期:9月17日’22~2月12日’23

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