相田みつを美術館へ。1996年銀座に開館、2003年に東京フォーラムの地下に移転。
相田みつを氏は、大正13年(1924)~平成3年(1991)栃木足利市出身。旧制中学の頃から書・短歌・絵をたしなみ、卒業後は禅を学んだ。10代の終わり頃に書家を志して修業を積み、すぐに才能が開花。若い頃、このようにお手本のような字体を書かれていたとは。(撮影不可の為、以下3枚の画像はHPより)当時は「光男」と本名で書かれており、「みつを」と変わるのは、30歳ぐらいから。
ひとつの作品を作り上げるのに、多量に書いて一晩で失敗作が山のようになることもあったが、失敗作は「人目に触れるのは嫌」とお風呂場の炊き付けにしてお風呂を沸かしていた。昭和30年代の大卒の初任給は1万5000円程度だったが、相田氏の妻曰く、時には相田氏は一晩で3万円分の紙を使ったとのこと。30歳で初めて個展を開いたものの作品は殆ど売れず、生涯で20数回個展を開いたが、売れ行きは良くなかった。また、詩を生むまでにも時間がかかり、1年や2年は良くあることで、一番長い作品で10年かかったとか。それを書にする際には「誰でも書けそうな感じでありながら、実は大変ということを見る人に悟られるようでは本物の書ではない」と相田氏は生前語っていたのだそう。作品が売れない為、風呂敷やのれんなどの実用品を作っていた。
この言葉は30歳過ぎあたりから書き始め亡くなるまで書き続けたが、時代時代でその作風は大きく異なっていたそう。67歳で脳内出血で逝去。
会場:相田みつを美術館
会期:6月2日~9月24日’23

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相田みつを氏は、大正13年(1924)~平成3年(1991)栃木足利市出身。旧制中学の頃から書・短歌・絵をたしなみ、卒業後は禅を学んだ。10代の終わり頃に書家を志して修業を積み、すぐに才能が開花。若い頃、このようにお手本のような字体を書かれていたとは。(撮影不可の為、以下3枚の画像はHPより)当時は「光男」と本名で書かれており、「みつを」と変わるのは、30歳ぐらいから。
ひとつの作品を作り上げるのに、多量に書いて一晩で失敗作が山のようになることもあったが、失敗作は「人目に触れるのは嫌」とお風呂場の炊き付けにしてお風呂を沸かしていた。昭和30年代の大卒の初任給は1万5000円程度だったが、相田氏の妻曰く、時には相田氏は一晩で3万円分の紙を使ったとのこと。30歳で初めて個展を開いたものの作品は殆ど売れず、生涯で20数回個展を開いたが、売れ行きは良くなかった。また、詩を生むまでにも時間がかかり、1年や2年は良くあることで、一番長い作品で10年かかったとか。それを書にする際には「誰でも書けそうな感じでありながら、実は大変ということを見る人に悟られるようでは本物の書ではない」と相田氏は生前語っていたのだそう。作品が売れない為、風呂敷やのれんなどの実用品を作っていた。
この言葉は30歳過ぎあたりから書き始め亡くなるまで書き続けたが、時代時代でその作風は大きく異なっていたそう。67歳で脳内出血で逝去。

会場:相田みつを美術館
会期:6月2日~9月24日’23

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