松方コレクションの その1 からの続き。

モネの「舟遊び」(1887年)1887 結構大きいのに驚いた。
ボートが途中で切れているのは浮世絵の構図から。ジヴェルニーで、6人の連れ子がいるアリスと言う女性の家族と暮らす。連れ子のシュザンヌとブランシュが描かれている。シュザンヌは、モネを慕ってきた画家と結婚。ブランシュはモネの手伝いをして本人も画家になり、アメリカ人画家と恋に落ちるが、モネは反対、モネの長男と結婚した。
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クロード・モネ《陽を浴びるポプラ並木》1891
モネはポプラ並木も連作で何点も描いている。ポプラは自由の木と言うイメージがある。
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キース・ヴァン・ドンゲン「カジノのホール」1920
なかなかモダンな印象。
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戦後、フランスを含む連合国に管理されている日本の財産はそれぞれの国が没収するが、例外規定として合法的に居住していた個人の財産は所有者に返還される平和条約に基づき、パリで保管されていた約400点が戻るはずだった。
しかし、コレクションの中でも重要なゴーギャンやゴッホなどいくつかの作品についてはフランス側が譲らず、結局、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、書籍5点の合計370点の作品が、美術館を建設して展示するという条件付きで日本政府に返還され、美術館の設計はフランスのル・コルビュジェにするよう指定され、現在の国立西洋美術館が1959年にオープンしていた。その際に返却してもらえなかった作品として今回の展覧会に来ている2点がこれら。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「アルルの寝室」 1889年 オルセー美術館蔵 
もともと松方コレクションだったが、パリから返却してもらえずオルセー美術館の所有となった。このモチーフは合計3枚存在し、アメリカとオランダに1枚ずつあり、これは3枚目。1枚目はゴーギャンが来る前に高揚した中で描き、残りはゴーギャンとの恋に破れて耳を切った事件の後となる。しかし、2枚目・3枚目は、本人が1枚目をそのままモチーフとして描いたのだそう。
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ポール・ゴーガン「扇のある静物」(1889年)オルセー美術館蔵
右奥の物は焼き物なのか何かは不明
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<ハンセン・コレクションの獲得>

日本国内の他の美術館や個人、松方氏の遺族からの寄贈なども。

エドガー・ドガ 「マネとマネ夫人像」(1868-1869年頃)
マネはピアノを弾いている奥さんの顔が気に食わないと、ドガが描いた絵の右をマネは切ってしまったが、ドガがそれを持ち帰り、切られた所にキャンバスは追加したものの、あえてそのままブランクで表示した作品。マネのお父さんが連れて来たピアノの先生で、お父さんの愛人だったが、マネが結婚したのだとか。モデルにポーズをとらせない描写はドガらしい作品でもある。
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マネ 「自画像」(1878-1879年)
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マネ 「ブラン氏の肖像」(1879年頃)
結構大きな作品。
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クロード・モネ「積みわら」(1885年)
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<北方への旅>

ピーテル・ブリューゲル(子)「鳥罠のある冬景色」
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エドヴァルド・ムンク「雪の中の労働者たち」(1910年)
ムンクの作品は、この作品に加え、油彩1点、パステル1点、版画40点も購入していた。
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ウジェーヌ・ドラクロワ《馬を連れたシリアのアラブ人》1829頃
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<第二次世界大戦と松方コレクション>

第二次世界大戦中も、作品はパリのロダン美術館の礼拝堂に保管されていた。日本政府は海外からの美術品の日本への持ち込みに100%の関税を課していた為、持ち帰れず。ナチスドイツ軍はユダヤ系から絵画を略奪していたが、日独伊連盟なのでドイツ軍が日本人である松方氏の収集品に手を付けないとも考えられたが、念のために、美術品はロダン美術館からパリ郊外のアボンダンの民家へ疎開させた。

パリに居た担当の日本人に、資金として収集した絵画を売却しても良いと松方氏から言われていた。そして実際にフランスでお金を作る為に、ナチスの協力画商であるアンドレ・シェーラー画商に売られた絵画がこれら。

マネ「嵐の海」1873
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アンリ・マティス《長椅子に坐る女》1920-1921 売却されてしまったのは意外かと。
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ピエール=オーギュスト・ルノワール「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」(1872年) 
フランス当局は返還をしぶるも、日本政府の長きに渡る交渉により無事に戻った作品。現在、西洋美術館の常設展示の中心となっている作品。ドラクロワの「アルジェの女たち」(1834)を踏まえているが、実際にアルジェまで行ったドラクロワとは異なり、パリの室内で描かれている。
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パリ在住の松方氏の姪にあたる黒木竹子氏がモネを松方氏に紹介した。松方氏は、少なくとも2回パリ郊外のジヴェルニーに住むモネ宅に訪れており、諸説あるが、少なくとも15点以上は直接購入している。

クロード・モネ 「睡蓮」1916
1 クロード・モネ 睡蓮 1916 





















これとは別に、モネの「睡蓮柳の反映」を購入。
しかし、1939年に世界大戦が勃発し、前述のように、日本へ絵画を持ち帰ることが出来ず、パリから80キロ離れたアボンダンと言う町にある民家に保管された。しかし、湿気やカビにより損傷を受け発見された時には巻かれたままのボロボロな状態で、パリに戻った時には絵としての価値がないとされていたものが、近年ルーブルで再発見され、松方コレクションの物と判明し返還された。

200×425センチと大作。まず、絵に薄い紙が癒着していたものをはがしていき、チョウザメの皮を煮て作ったノリではがれそうな絵具の部分を付け、ハケで全面のホコリを大まかに取り、綿棒で細かいホコリを取る、など10カ月にもわたる修復が施された。上下さかさまに置かれていたようで、上半分のダメージが酷く失われている。
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実物は、ピンクの蓮の花の部分の絵具が非常に盛られていて、迫力がある。破損している部分との境目辺りは、ほんのわずかな物まで残っており、良くぞここまで修復されたなと言う印象。

近年になり、1925年頃に撮られたガラス乾板がみつかった。
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4億ガソの超高精細カメラで撮影するなどし、AI に学習させ、推定復元が行われた。
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最終的に推定復元がされたものはこちら。
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モネは生涯、睡蓮を300点近く描いており、高さ2メートルの絵画が何枚もつなぎ合わされた物がパリのオランジェリー美術館に収蔵されている。
今回発見され修復された物も、同様の高さ2メートル、横4メートルで、オランジェリー美術館の連作のサイズに合い、キャンバスも一致。「朝」、「昼(雲)」、「日没」がオランジェリーにあり、松方コレクションはそれらに並ぶ夜のものだと推測されている。


因みに、前述したが、パリで保管されていた約400点のうち特に秀作の約20点はフランス政府が返還を拒否した。以下がそれら:

オルセー美術館蔵

    ボンヴァン『チーズのある静物』
    ボンヴァン『鴨のある静物』
    ボンヴァン『野兎のある静物』
    クールベ『フラジェの農夫たち』
    マネ『ビール・ジョッキを持つ女』
    ゴーギャン『シュフネッケルの家族』
    ゴーギャン『扇のある静物』
    ゴーギャン『ブルターニュの風景』
    ゴーギャン『ヴァイルマティ』
    ゴッホ 『アルルの寝室』
    ロートレック『ジュスティーヌ・デュールの肖像』

ルーヴル美術館(素描版画室)蔵

    セザンヌ『ジョルジョーネの《田舎の合奏》より』(水彩)
    セザンヌ『サント・ヴィクトワール山』(水彩)
    セザンヌ『調理台の上の瓶とポット』(水彩)
    モロー『ジョット』(水彩)

ポンピドゥ・センター国立近代美術館蔵

    マルケ『サン・ミシェル橋』
    スーティン『鶏』
    スーティン『ページ・ボーイ』
    ピカソ『読書する婦人』

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