内藤廣氏が設計した九谷焼窯跡覆屋を見に行ったのだが(追ってその様子は別記事にて)、窯跡だけでなく展示内容も色々とあった。
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中央のグレーの建物が窯跡覆屋
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九谷焼は、江戸前期の明暦元年(1655)に、現加賀市の大聖寺藩領内の九谷村で焼かれ始め、わずか50年ほどで生産が途絶えた。江戸後期になり、大聖寺城下の豪商の吉田屋伝右衛門(豊田伝右衛門、吉田屋は屋号)が再興する為に、文政7年(1824)に九谷村に新たな登り窯を築き、以前の九谷焼である古九谷を彷彿とされる磁器を生産。この吉田屋窯の作品が当時唯一の「九谷焼」と呼ばれていた。交通や積雪などの為に、文政9年(1826)に窯場をここ山代に移し昭和15年まで受け継がれ、当時は焼成室は4室だったが、明治~大正期に磁器の需要が増えたので6室へと拡張され、約1万個が窯詰めされたと考えられている。
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山代九谷焼磁器焼成窯
上記の窯の後、後継窯として昭和15年に作られた現存最古の窯。昭和40年頃まで使われており、1度の窯詰めで約1000個を2ヶ月ほどかけて窯詰めをし、焼成に約30時間、冷却に約30時間かけた。燃料は赤松の薪を1度に3000~5000本使用。九谷焼では最初の「素焼き」、釉薬をかけた後の「本焼き」、上絵を描いた後の「上絵付け」と複数回の焼成工程があり、窯を使い分けている。登り窯は1300℃前後の高温で焼く本焼き用の窯。
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登り窯では灰や炎によって作品の表面が荒れるのを防ぐ為に、さやと言う入れ物に作品を入れて窯詰めする。下にはハマ(粘土プレート)とメズナ(砂)を敷いて、作品がスムーズに収縮できるようにし、焼成途中の破損を防いだ。
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錦窯(復元) 
登り窯で焼き上げた磁器の上に、五彩の絵模様を描く上絵付けを施し、錦窯に入れて800℃前後で焼成した。
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企画展示室では、企画展「龍」が開催されていた。

龍は鱗蟲(鱗のある動物)の長で、雨を司る精霊とされ、9種の動物に似た特徴を持ち、吉祥をもたらす霊獣として崇められてきた。その原型は神獣「夔(き)」であるとも言われ、古代中国の殷・周時代の青銅器の装飾に早くもその姿が表現されている。文様として三千年以上の歴史があり、特に五爪を持つ龍は明・清の時代には皇帝の象徴とされ、最高の権威を表すものだった。日本でも、美術工芸や建築装飾に、龍の図象は古くから用いられ、権力や霊威の象徴として、また福を呼ぶ吉祥文様としていた。

松山窯「青手龍図輪花皿」
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浅井一毫「赤絵雲龍図蓋付菓子鉢」大正元年
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梶谷竹塘「赤絵雲龍図徳利(一対)」昭和戦前、「金彩・銀彩雲龍文盃(一対)」
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下出梅仙「赤絵雲龍図煎茶器揃」昭和戦後
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谷秋渓「赤絵龍鳳凰文優勝杯」、「赤絵龍鳳凰図花瓶」
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常設のエリアもある。
古九谷「色絵舟図長皿」江戸時代前期
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古九谷「色絵牡丹文碗」江戸時代前期
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九谷焼の様式として、加賀市一帯で制作された代表的な様式としては、青手、色絵、赤絵、大聖寺伊万里、染付がある。

左から:吉田屋窯「青手 松竹梅図椀」江戸後期、吉田屋窯「青手 桃津長角手鉢」江戸後期、吉田屋釜「青手 瓜図甲鉢」
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左:赤絵金欄手「鳳凰図向附」、右奥:大聖寺伊万里「花籠牡丹文皿」明治中期、右手前:大聖寺伊万里「赤玉雲龍文鉢」窯元不明 大正期以降
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呉須赤絵と、古染付
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九谷本窯「赤絵 百老図盃」江戸末期
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九谷壽楽製陶所 大聖寺伊万里「染錦山水楼閣図鉢」大正時代頃
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実際に作業をされている絵付け場なども公開されている。
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街灯のカバーも九谷焼
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スタンプラリーまであった😂
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会場:九谷焼窯跡展示館
会期:10月11日~1月15日’24

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