姫路城が世界遺産になった1993年よりも以前に一度訪れたのだが、以降は2009年から始まった改修工事の為になかなか行く機会がなく、ようやく再訪。1931年に大天守閣が国宝(旧国宝で現在の重要文化財相当)に、1951年に姫路城の大天守、西小天守や乾小天守、東小天守、渡櫓など、8棟が国宝(新国宝)に指定された。
城主の池田輝政は城の美しさにこだわり、入母屋破風、唐破風が折り重なったハデさがあり、外から5階建てに見えるが、実際は地下1階・地上6階の7階建て。3つの子天守は、それぞれが繋がった連立式天守で、防御力が高い。
菱の門
現存で最古。幅20メートルの櫓門は兵士を乗せて守る門となっており、黒漆に金が施されている。
三国堀
997個の狭間が場内に現存。壁の○や□や△の穴から火縄銃で撃つもので、□は弓矢、△や○は鉄砲用。火縄銃には時間がかかるので、○と△が交互に撃つ。見える範囲は狭いが、狙う範囲を決めている為とのこと。
いの門
ろの門の右側の道の方が天守閣に向かっているように見えるので、敵が迷って分散するように造られた罠の道。お殿様は右ではなくまっすぐ正面の道を使った。
将軍坂
「暴れん坊将軍」のロケ地だった為に将軍坂と呼ばれるようになった。ドラマの役柄の徳川吉宗は、実際には姫路城には来たことがなく、姫路城の白さは江戸城に通じる為にロケ地となった。織田信長や豊臣秀吉のお城は黒い外観で、板の壁で焼けやすかった為、消石灰は耐火性に強いということで、徳川家康が江戸城を白漆喰の白にし、姫路城城主の池田輝政(家康の娘婿)も同様にした。訪れた時はあいにく右側が工事中💧
はの門
姫路城では、近隣のお寺の墓石や石仏、古墳の石棺など石造品が石垣や建物の基礎に転用されている。はの門では、六角形に加工された石灯籠の基礎を使っている。
にの門
櫓門なので、2階に平侍が潜むことが出来、天井は今は板で覆われているが、上から鎗が刺せるようになっていた。先には本丸がある為に頑丈になっており、坂道で L字になっていて攻めにくい。
屋根瓦の家紋
軒丸瓦や滴水瓦はかつての城主の家紋で、あげは蝶は池田家(信長からいただいた家紋)、剣酢漿草紋(酒井家)、源氏車紋などなど、6家の31人もの城主が入れ替わっていて、全国最多。豊臣秀頼が大阪城を、そして秀頼に味方する有力大名が西におり、西国に徳川が睨みをきかせる姫路城が重要だった為、姫路城には、幼少の城主を置かないという不文律が出来ていた。

大天守
大天守の地下から入る。暗く、穴蔵や倉庫として使われていた。東西の大柱が見える。
流し 四角い枠の中にスノコが敷かれた所は、水を流す場所で、横幅4m。すのこの下から排水し、といから外へ流れる。たてこもることを想定して造られたもの。
籠城生活に欠かせないものとして、奥に「厠」の文字もあり。天守の中のトイレで現存しているのは姫路城のみ。汲み取り式には、備前焼の甕が使われ、9つもの厠が天守にあった。
1階
大広間と物置3つ。廊下は武者走りと言われる。大広間は会議室として。

破風の間 天守入口にかかる入母屋破風の屋根裏の部分で、格子窓のひとつは開閉できるようになっている。
出格子窓 南側の唐破風の下は出格子窓で、窓の下は石落としとなっており、石垣下まで見通せるようになっている。
武者隠し 部屋の隅にある武者隠しは四隅にある。狭い小部屋で武士が隠れ潜む場所で、城が落ちる直前の抵抗の為と言われている。内部は2階になっている為、大人では動けないとか。姫路城は不戦の城だった為、戦いに使われることは400年間で一度もなかった。
東大柱 樹齢400年のもみの木は、直径約1m、長さ25m。100トンの荷重がかかっていると言われている。地下から5階までお城を串刺しにすることで、耐震性をあげており、この構法のお城は珍しい。姫路は阪神淡路大震災で震度4だったが、大天守最上階の一升瓶も倒れなかった。
西大柱 一本の木のように見えるが、2本の木をつないでいる。組み合わせて「相欠吸付独鈷引き(あいかきすいつきどっこびき)」という技法の組み方で木をつないでいる。大天守が傾いてしまった為、西の柱は一度取り替えられている。
築城直後から傾いていたという伝説がある。大工棟梁の桜井源兵衛が完成させたが、東に傾いていた為、のみを口にくわえて天守から身を投げたという伝説まであり、「東に傾く姫路のお城、花のお江戸を恋しがる」とまで揶揄されていた。測量のミスではなく、上の荷重に耐えきれなくて下部が沈んだ為で、昭和初期には大柱が南東に37センチも傾いていた。15年間にかかって、天守を全て解体し、西大柱を取り替えるなど修理を行ったのだそう。
4階
3階と4階の間には踊り場があり、間仕切りのないワンフロアとなっている。
5階
東西の大柱の上端はここまで。
6階天守
長壁神社(おさかべ)築城前からの神様を池田輝政が祀った。お城が完成して4年後に、池田輝政は死去。
お殿様の場所の為、窓が多い。現在の姫路駅までお濠があり、広い敷地による総構で、城下には26000人が住んでいた。天守閣からは家島諸島、四国の山も見える。西国の大名が大阪城に向かう時に海路も使っていた為、姫路城は海を監視する役割もあり、お城が白いのは、灯台が白いように海から見ても目立つようにもなっていた。
西の丸の百間廊下などが良く見える。
子天守も多数
子天守に続く廊下などに模型や鬼瓦などが色々と展示されている。模型は昭和の解体修理時に製作された実物の 1/20 のもの。
備前丸からの天守は、子天守がもうひとつ見えることから、広場の端にある井戸が写真スポット。何処から見ても綺麗なので、「八方正面の城」と言われる。
池田輝政の御殿があった場所で、池田輝政の時代はここから水を運んでいた。敷地面積が狭いので、建物が密集していたと考えられている。
多門櫓=井戸櫓 井戸は深さ約15メートル、直径2.9メートル、水深1.2メートル。
備前門 入口脇に加工された直方体の積まれた石は、古墳に埋葬されていた石棺からのもの。石棺を流用するなどの転用石は、城内に90個もある。
帯の櫓 内部は数寄屋風で茶室として使われていたと考えられている。
お菊井戸 怪談「播州皿屋敷」の元となった。永承年間(1500年頃)、姫路城のっとりを画策する家臣の家に、スパイとして働いていたお菊の身分がばれてしまい、オレの女になったら黙っておいてやると言われたが、お菊には恋人がいた為にそれを拒否。十枚一揃えの皿を1枚なくしたという濡れ衣で殺され、井戸の中へ。以降、井戸の辺りで、1枚、2枚という声が聞こえるようになったと・・・「番町皿屋敷」では? 舞台を播州から番町に書き換えられたとか。
ぬの門 城内で唯一の三層の櫓門。扉は木部を全て黒鉄張りにして、太鼓鋲でとめている。
扇の勾配 池田輝政の時代には、そりが扇の勾配の石積みも。下が65度で、上は74度など。全て急勾配だと地震で崩れやすい為、上だけ急勾配として登りにくくしている。
人面石 人の顔が隠れているとも言われてる。呪術的な意味があるとも、大きな石で敵に権力や権威を示したものとも言われている。
るの門 石垣の中に開けられた穴を出入口とした門。門の位置に気付きにくく、伏兵を使った戦術に有効だったと考えられる。もともとは両開きの扉があり、その門柱の礎石が両側の四角い石。緊急時には門を閉めてかんぬきを通し、通路を土砂で埋めることが出来た。
二種類の継ぎ目のある石垣 左右で異なる。左は不揃いな野面積みで、加工せずに載せていて隙間が多い。右の打ち込み接ぎ(はぎ)は隙間が少なく登りにくい。左は秀吉のもので、右は池田輝政が作ったもので、20年ほどしか経っていないが、築城技術が発展したことを示している。
西の丸 天守完成の9年後に新しい城主本多忠政が隣の山を切り開いて作った場所。右側からは松ごしの天守閣が見られる。息子の忠刻の屋敷があったが、もう残っていない。
百間廊下 西の丸を守るべく、石垣の上に240m以上にわたって作られた櫓。櫓内部は百間廊下と言われている。2階建ての櫓と櫓の間には、渡り櫓と呼ばれる長屋で結び、多門櫓とも呼ばれる。倉庫、住居、防御施設として使われ、解体して移築することも容易だった。西の丸は、忠刻の嫁の千姫(徳川家康の孫)が嫁いで来る時の10万石の持参金で築かれた。11歳の豊臣秀頼と7歳の千姫が結婚、祖父の徳川家康が豊臣秀頼を攻めてきた時、千姫は豊臣側に助けられる。千姫は護衛役の本多忠刻に一目惚れし、2人の子供が生まれたが、3歳の息子が亡くなる。その後も流産続きになり、もと夫である豊臣秀頼のたたりでは?と神社を建立したという。
狭間や石落としの場所が多数。
雨水抜き 敷居にたまった雨水を排水し、木部を乾燥させて腐食から守る役割だった。
北門跡
またまた転用石かな。
中村大佐顕彰碑(画像なし)
姫路城存続の危機から救った人。明治維新で武士の時代が終わってしまった為、姫路城は明治7年に23円50銭で落札された(公務員初任給が4円)が、売却はされず。明治43年には瓦が崩れ雑草だらけで姫路城は朽ちていた。陸軍の中村大佐が、西南戦争を経験し、熊本城の哀れな姿を知っていたので、修理費用を政府にうったえ、明治の保存工事が始まった。太平洋戦争時には、空襲で目立たないように黒い布がかけられていた。焼け野原になった姫路市街だったが、姫路城は三の丸は焼夷弾が落ちたが、天守閣は奇跡的に焼け残った。
結構ここを見るだけで疲れたのだが、頑張って、姫路城西御屋敷跡庭園の好古園(こうこえん)へ。その様子は追って。

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城主の池田輝政は城の美しさにこだわり、入母屋破風、唐破風が折り重なったハデさがあり、外から5階建てに見えるが、実際は地下1階・地上6階の7階建て。3つの子天守は、それぞれが繋がった連立式天守で、防御力が高い。
菱の門
現存で最古。幅20メートルの櫓門は兵士を乗せて守る門となっており、黒漆に金が施されている。
門の手前上の、今は網の部分となっている隙間は石落しの為。
三国堀
狭間
いの門
ろの門
将軍坂
「暴れん坊将軍」のロケ地だった為に将軍坂と呼ばれるようになった。ドラマの役柄の徳川吉宗は、実際には姫路城には来たことがなく、姫路城の白さは江戸城に通じる為にロケ地となった。織田信長や豊臣秀吉のお城は黒い外観で、板の壁で焼けやすかった為、消石灰は耐火性に強いということで、徳川家康が江戸城を白漆喰の白にし、姫路城城主の池田輝政(家康の娘婿)も同様にした。訪れた時はあいにく右側が工事中💧
はの門
姫路城では、近隣のお寺の墓石や石仏、古墳の石棺など石造品が石垣や建物の基礎に転用されている。はの門では、六角形に加工された石灯籠の基礎を使っている。
にの門
櫓門なので、2階に平侍が潜むことが出来、天井は今は板で覆われているが、上から鎗が刺せるようになっていた。先には本丸がある為に頑丈になっており、坂道で L字になっていて攻めにくい。
屋根瓦の家紋
軒丸瓦や滴水瓦はかつての城主の家紋で、あげは蝶は池田家(信長からいただいた家紋)、剣酢漿草紋(酒井家)、源氏車紋などなど、6家の31人もの城主が入れ替わっていて、全国最多。豊臣秀頼が大阪城を、そして秀頼に味方する有力大名が西におり、西国に徳川が睨みをきかせる姫路城が重要だった為、姫路城には、幼少の城主を置かないという不文律が出来ていた。

「姥が石」と呼ばれる石臼だったもの。豊臣秀吉が築城する際に石不足で困っていたところ、城下のおばあさんが石臼を献上し、石臼を使うことに。その話を聞いて、国中から石が献上されたとか。石垣は秀吉時代の物ではないので、作り話だったそうだが。
大天守
大天守の地下から入る。暗く、穴蔵や倉庫として使われていた。東西の大柱が見える。
流し 四角い枠の中にスノコが敷かれた所は、水を流す場所で、横幅4m。すのこの下から排水し、といから外へ流れる。たてこもることを想定して造られたもの。
籠城生活に欠かせないものとして、奥に「厠」の文字もあり。天守の中のトイレで現存しているのは姫路城のみ。汲み取り式には、備前焼の甕が使われ、9つもの厠が天守にあった。
1階
大広間と物置3つ。廊下は武者走りと言われる。大広間は会議室として。

2階
出っ張りが多数あるのは武具掛けで、火縄銃や鎗などをかける。天守が武器の保管庫となっていた。
武者走りの上には、細い棒のような竹釘が出ており、火縄銃の為の火縄をかけていた。細い竹釘は、縄を取る時に一緒に釘が折れて、ひっかからずに、さっと取れるようになっている。
破風の間 天守入口にかかる入母屋破風の屋根裏の部分で、格子窓のひとつは開閉できるようになっている。
出格子窓 南側の唐破風の下は出格子窓で、窓の下は石落としとなっており、石垣下まで見通せるようになっている。
武者隠し 部屋の隅にある武者隠しは四隅にある。狭い小部屋で武士が隠れ潜む場所で、城が落ちる直前の抵抗の為と言われている。内部は2階になっている為、大人では動けないとか。姫路城は不戦の城だった為、戦いに使われることは400年間で一度もなかった。
東大柱 樹齢400年のもみの木は、直径約1m、長さ25m。100トンの荷重がかかっていると言われている。地下から5階までお城を串刺しにすることで、耐震性をあげており、この構法のお城は珍しい。姫路は阪神淡路大震災で震度4だったが、大天守最上階の一升瓶も倒れなかった。
西大柱 一本の木のように見えるが、2本の木をつないでいる。組み合わせて「相欠吸付独鈷引き(あいかきすいつきどっこびき)」という技法の組み方で木をつないでいる。大天守が傾いてしまった為、西の柱は一度取り替えられている。
築城直後から傾いていたという伝説がある。大工棟梁の桜井源兵衛が完成させたが、東に傾いていた為、のみを口にくわえて天守から身を投げたという伝説まであり、「東に傾く姫路のお城、花のお江戸を恋しがる」とまで揶揄されていた。測量のミスではなく、上の荷重に耐えきれなくて下部が沈んだ為で、昭和初期には大柱が南東に37センチも傾いていた。15年間にかかって、天守を全て解体し、西大柱を取り替えるなど修理を行ったのだそう。
4階
3階と4階の間には踊り場があり、間仕切りのないワンフロアとなっている。
5階
東西の大柱の上端はここまで。
6階天守
長壁神社(おさかべ)築城前からの神様を池田輝政が祀った。お城が完成して4年後に、池田輝政は死去。
お殿様の場所の為、窓が多い。現在の姫路駅までお濠があり、広い敷地による総構で、城下には26000人が住んでいた。天守閣からは家島諸島、四国の山も見える。西国の大名が大阪城に向かう時に海路も使っていた為、姫路城は海を監視する役割もあり、お城が白いのは、灯台が白いように海から見ても目立つようにもなっていた。
西の丸の百間廊下などが良く見える。
子天守も多数
子天守に続く廊下などに模型や鬼瓦などが色々と展示されている。模型は昭和の解体修理時に製作された実物の 1/20 のもの。
備前丸からの天守は、子天守がもうひとつ見えることから、広場の端にある井戸が写真スポット。何処から見ても綺麗なので、「八方正面の城」と言われる。
池田輝政の御殿があった場所で、池田輝政の時代はここから水を運んでいた。敷地面積が狭いので、建物が密集していたと考えられている。
多門櫓=井戸櫓 井戸は深さ約15メートル、直径2.9メートル、水深1.2メートル。
備前門 入口脇に加工された直方体の積まれた石は、古墳に埋葬されていた石棺からのもの。石棺を流用するなどの転用石は、城内に90個もある。
帯の櫓 内部は数寄屋風で茶室として使われていたと考えられている。
お菊井戸 怪談「播州皿屋敷」の元となった。永承年間(1500年頃)、姫路城のっとりを画策する家臣の家に、スパイとして働いていたお菊の身分がばれてしまい、オレの女になったら黙っておいてやると言われたが、お菊には恋人がいた為にそれを拒否。十枚一揃えの皿を1枚なくしたという濡れ衣で殺され、井戸の中へ。以降、井戸の辺りで、1枚、2枚という声が聞こえるようになったと・・・「番町皿屋敷」では? 舞台を播州から番町に書き換えられたとか。
ぬの門 城内で唯一の三層の櫓門。扉は木部を全て黒鉄張りにして、太鼓鋲でとめている。
扇の勾配 池田輝政の時代には、そりが扇の勾配の石積みも。下が65度で、上は74度など。全て急勾配だと地震で崩れやすい為、上だけ急勾配として登りにくくしている。
人面石 人の顔が隠れているとも言われてる。呪術的な意味があるとも、大きな石で敵に権力や権威を示したものとも言われている。
るの門 石垣の中に開けられた穴を出入口とした門。門の位置に気付きにくく、伏兵を使った戦術に有効だったと考えられる。もともとは両開きの扉があり、その門柱の礎石が両側の四角い石。緊急時には門を閉めてかんぬきを通し、通路を土砂で埋めることが出来た。
二種類の継ぎ目のある石垣 左右で異なる。左は不揃いな野面積みで、加工せずに載せていて隙間が多い。右の打ち込み接ぎ(はぎ)は隙間が少なく登りにくい。左は秀吉のもので、右は池田輝政が作ったもので、20年ほどしか経っていないが、築城技術が発展したことを示している。
西の丸 天守完成の9年後に新しい城主本多忠政が隣の山を切り開いて作った場所。右側からは松ごしの天守閣が見られる。息子の忠刻の屋敷があったが、もう残っていない。
百間廊下 西の丸を守るべく、石垣の上に240m以上にわたって作られた櫓。櫓内部は百間廊下と言われている。2階建ての櫓と櫓の間には、渡り櫓と呼ばれる長屋で結び、多門櫓とも呼ばれる。倉庫、住居、防御施設として使われ、解体して移築することも容易だった。西の丸は、忠刻の嫁の千姫(徳川家康の孫)が嫁いで来る時の10万石の持参金で築かれた。11歳の豊臣秀頼と7歳の千姫が結婚、祖父の徳川家康が豊臣秀頼を攻めてきた時、千姫は豊臣側に助けられる。千姫は護衛役の本多忠刻に一目惚れし、2人の子供が生まれたが、3歳の息子が亡くなる。その後も流産続きになり、もと夫である豊臣秀頼のたたりでは?と神社を建立したという。
狭間や石落としの場所が多数。
雨水抜き 敷居にたまった雨水を排水し、木部を乾燥させて腐食から守る役割だった。
北門跡
またまた転用石かな。
中村大佐顕彰碑(画像なし)
姫路城存続の危機から救った人。明治維新で武士の時代が終わってしまった為、姫路城は明治7年に23円50銭で落札された(公務員初任給が4円)が、売却はされず。明治43年には瓦が崩れ雑草だらけで姫路城は朽ちていた。陸軍の中村大佐が、西南戦争を経験し、熊本城の哀れな姿を知っていたので、修理費用を政府にうったえ、明治の保存工事が始まった。太平洋戦争時には、空襲で目立たないように黒い布がかけられていた。焼け野原になった姫路市街だったが、姫路城は三の丸は焼夷弾が落ちたが、天守閣は奇跡的に焼け残った。
結構ここを見るだけで疲れたのだが、頑張って、姫路城西御屋敷跡庭園の好古園(こうこえん)へ。その様子は追って。

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コメント
コメント一覧 (2)
復元した天守閣と質感が違います
天守閣からの風景 JR姫路駅はどこだろう と思ったのですが
🚅から狙ったショット 成功したのは 一度だけ 駅を通過する瞬間に 勘でやるのですが 退避する列車に隠れたり 💦
な~が nagacumatz
が
しました