設計者なのだが、東京都の歴史的建造物に選定されていて、それを示す標識には設計者が「新定蔵」氏と明記されているのだが、施工会社は新工務所で設計者は「山中節治」氏(1895~1952)と書かれたものがあるのだそう。他の発行物で新工務所の代表者である新定蔵氏が設計者と誤植され、それを東京都の担当者が断定してしまったという記事もあった。。。果たして???
昭和4年(1929)竣工。鉄筋コンクリート造 地上5階・地下1階 17室。
戦後間もなくまで木挽町という地名で呼ばれていた地域で、江戸時代より芝居小屋が多く建つ町。ビルのオーナーである鈴木家は、歌舞伎の興業を取り仕切る帳元だった。かつて甲子屋倶楽部と呼ばれ、公演や稽古事などに貸し出しており、2階に芝居等の公演ができる広い舞台、3階は住居、そのほかは予備室や貸室となっていた。4つの馬蹄形の窓を持つ鋼板葺きの屋根、デザインを変えた 3種類の窓、一階円柱にほどこされた幾何学的レリーフ、内部の壁の布目タイルなどに特徴がある。
現在、1階は書店、2階は高山まさき氏の建築事務所などが入居している。日本工房(国際報道工芸)という日本で初めての報道写真をかかげた制作集団が昭和14年から入居していたが、敗戦と共にその役割を終えたのだそう。
昭和4年(1929)竣工。鉄筋コンクリート造 地上5階・地下1階 17室。
戦後間もなくまで木挽町という地名で呼ばれていた地域で、江戸時代より芝居小屋が多く建つ町。ビルのオーナーである鈴木家は、歌舞伎の興業を取り仕切る帳元だった。かつて甲子屋倶楽部と呼ばれ、公演や稽古事などに貸し出しており、2階に芝居等の公演ができる広い舞台、3階は住居、そのほかは予備室や貸室となっていた。4つの馬蹄形の窓を持つ鋼板葺きの屋根、デザインを変えた 3種類の窓、一階円柱にほどこされた幾何学的レリーフ、内部の壁の布目タイルなどに特徴がある。
現在、1階は書店、2階は高山まさき氏の建築事務所などが入居している。日本工房(国際報道工芸)という日本で初めての報道写真をかかげた制作集団が昭和14年から入居していたが、敗戦と共にその役割を終えたのだそう。
コメント