田名網敬一氏の「記憶の冒険」展。
会期が始まった直後の8月9日に88歳で亡くなられたが、約500点もの作品が一同にならぶこの展覧会を細部に渡り企画されていたとのこと。
百橋図 2024
この展覧会の為に制作された作品。葛飾北斎の描いた風景の中に橋が多数ある「百橋図」からインスピレーションを得たもので、幼い頃に見た目黒の雅叙園やその前の太鼓橋をイメージ。
時系列になっているので、とてもわかりやすい。
60年代に手掛けた作品。戦後、少年漫画やアメリカのB級映画の影響を受け、デザインを現在の武蔵野美術大学で学び、在学中のポスターが受賞したことから、グラフィックデザイナーとなる。未だ、デザインが応用美術として純粋な芸術として認めてもらえなかった頃だったが、ポップアートを意識したものを制作し、1968年に「NO MORE WAR 」がアメリカの反戦ポスター公募作品で入選。
70年代に、NYでアングラなどを体感し、コラージュを始め、1975年には日本版「月刊プレイボーイ」にも参画された。
アニメーションも制作。
80年代に、生死にかかわる肺の病気で4ヶ月の入院中、夢か現実かわからない幻覚などをみることとなり、死を意識しはじめる。中国を旅行で訪れ、鶴、亀、松、木などをモチーフとし、金沢の木工職人の方にデザインしたものの木彫を依頼。
90年頃から、記憶を呼び起こして制作するようになる。夢日記を付け続けるが、10年ほど経ってから、より刺激的な夢をみたいとして、寝不足になったとか。
アニメーション
戦争体験や、入院中にみた幻覚などの記憶を、思い出に終わらせずに描いたとのこと。
2022年に、集英社のグラビア印刷機が国内の稼働を終え、記念になる作品をと依頼され、田名網氏が赤塚不二夫氏の作品とのコラボを提案。その時、田名網氏は86歳。
会期が始まった直後の8月9日に88歳で亡くなられたが、約500点もの作品が一同にならぶこの展覧会を細部に渡り企画されていたとのこと。
百橋図 2024
この展覧会の為に制作された作品。葛飾北斎の描いた風景の中に橋が多数ある「百橋図」からインスピレーションを得たもので、幼い頃に見た目黒の雅叙園やその前の太鼓橋をイメージ。
時系列になっているので、とてもわかりやすい。
60年代に手掛けた作品。戦後、少年漫画やアメリカのB級映画の影響を受け、デザインを現在の武蔵野美術大学で学び、在学中のポスターが受賞したことから、グラフィックデザイナーとなる。未だ、デザインが応用美術として純粋な芸術として認めてもらえなかった頃だったが、ポップアートを意識したものを制作し、1968年に「NO MORE WAR 」がアメリカの反戦ポスター公募作品で入選。
70年代に、NYでアングラなどを体感し、コラージュを始め、1975年には日本版「月刊プレイボーイ」にも参画された。
アニメーションも制作。
80年代に、生死にかかわる肺の病気で4ヶ月の入院中、夢か現実かわからない幻覚などをみることとなり、死を意識しはじめる。中国を旅行で訪れ、鶴、亀、松、木などをモチーフとし、金沢の木工職人の方にデザインしたものの木彫を依頼。
90年頃から、記憶を呼び起こして制作するようになる。夢日記を付け続けるが、10年ほど経ってから、より刺激的な夢をみたいとして、寝不足になったとか。
アニメーション
16世紀のジュゼッペ・アルチンボルトの描いた絵のオマージュとした、立体作品。
アトリエを模した小屋には、グラフィックデザインの設計図である指定紙で、色指定のチップを貼り付け、アシスタントの方が色付けしていく。
2000年以降は、田名網敬一氏が再評価されていく。夢と記憶を貼り合わせて塗り重ねていき、コラージュは、映像や立体など。
ピカソシリーズ
2020年のコロナ禍中に始めて、一日4~5枚を描く時もあるぐらいで、2024年になっても描き続けて700点を超えている。オリジナルに結構寄せているが、ピカソの財団からアプルーバルを得ているとのこと。このシリーズの展覧会は、NANZUKA UNDREGROUND で拝見したが、2022年当時で、既に300点以上が描かれていた。
戦争体験や、入院中にみた幻覚などの記憶を、思い出に終わらせずに描いたとのこと。
珍しく何も描かれていない余白?余紫?のある作品。
2022年に、集英社のグラビア印刷機が国内の稼働を終え、記念になる作品をと依頼され、田名網氏が赤塚不二夫氏の作品とのコラボを提案。その時、田名網氏は86歳。
それにしてもおびただしい数の作品群。田名網氏はインタビューで、思いついたことをすぐに描くが時間がかかるので、絵画は不自由だ、と。
会場:国立新美術館
会期:8月7日~11月11日’24
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