1929年竣工。東京市による設計。
当時は東京市が管轄しており、大正時代の関東大震災で東京市の117の小学校が被災。「復興小学校」として、東京市が、木造から当時は未だそれほど普及していなかった鉄筋コンクリートに建て替えたもので、寸法は全て同じ基準で設計された。ただ、基準通りではない個性もあり、両脇の柱のデザインなどは独自。正門(フランス門)は、南フランスの貴族の館にあった門を輸入し、銀座の街から寄贈されたのだそう。関東大震災以降、耐震は行われたが、太平洋戦争の空襲による爆風で焼けてしまった。
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校庭、体育館、講堂を特別公開として見ることが出来、写真もその3ヶ所だけは撮ることが出来たが、ブログやSNSへの掲載は不可の為、外側からの画像のみ💧
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建設当時は外堀川に面していたが、外堀川は昭和33年に埋められ高速道路となってしまった。本来は、川側が建物の正面で、現在見ているみゆき通り側が裏側になるとのこと! 当時は、数寄屋橋の川側から見ると、白い校舎が船に見えたのだそう。この辺りが昔あった川沿いの正面玄関?と思われたのだが、黒い建物に男の人達が吸い込まれていく・・・???と思ったところ、なんとなんと喫煙所!
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戦後、地域の人達の寄付により、別棟として講堂と体育館が作られた。下の階に体育館、上階に講堂と、ふたつがある小学校は非常に珍しく、講堂には固定の椅子があった。20 の教室のほか、特別教室として理科室、絵の為の美術室、工作室などがあり、当時から北側採光を取り入れていた。
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現在は安全面から門を閉じているが、数寄屋橋公園と校庭が繋がっていたそうで、こんなに間近に岡本太郎氏の「若い時計台」があるとは思ってもみなかった。
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神田の常盤小学校、九段小学校、東浅草小学校など、戦前の小学校は現在21校残っている。渋谷は当時は中心部ではない郊外だった為、広尾小学校は東京市ではなく東京府管轄下。東京市ではラジエーターによる暖房設備だったが、東京府ではストーブだったりと違いがあったとのこと。

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