どうしても湯豆腐が食べたかったこともあり、京都に行った。
関西に住んでいた時にはしょっちゅう遊びに来ていて、東京に転居した後も親戚の冠婚葬祭で何度か来ていたが、ゆっくり歩くのは何年ぶりかわからないほど久しぶりの京都。
初冬の京都の街は、大阪や神戸ほど変わっていないのは幸いだったが。
まずは白川沿いを散策。
南禅寺方面へ。
関西に住んでいた時にはしょっちゅう遊びに来ていて、東京に転居した後も親戚の冠婚葬祭で何度か来ていたが、ゆっくり歩くのは何年ぶりかわからないほど久しぶりの京都。
初冬の京都の街は、大阪や神戸ほど変わっていないのは幸いだったが。
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まずは白川沿いを散策。
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お茶屋さん等がある通り | お茶屋さんの入口には舞妓さんや芸子さんの名前が | 丁度撮影をしていた |
南禅寺方面へ。
まずは南禅院へ。
鎌倉時代の中期、文永元年(1264年)、亀山天皇は離宮禅林寺殿を営み、その後に天皇は禅宗に帰依し、正応2年(1289年)離宮で出家し法皇となった。南禅院は離宮の遺跡であり、南禅寺発祥の地。
庭園は鎌倉時代末の代表的池泉廻遊式庭園で、夢想国師の作庭。天竜寺庭園、苔寺庭園と共に京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されている。
建物は明徳4年(1393年)の火災で焼失、再び応仁の乱で失われるも、元禄16年(1703年)徳川綱吉の母桂昌院の寄進で再建された。
紅葉はもう見頃を終えてほとんどが散っていたが、池の水の中に落ちた紅葉は、葉がチリチリとならずに藻の緑の上に綺麗な色を見せていた。
疎水の水道橋。
まるでローマ時代の水道橋のようだが、西洋化されつつある中の明治初期に日本人技術者だけで作ったという水道橋。
琵琶湖から水を引いており、上水道、灌漑用水、水運を目的として作られた。今なお水が流れている。
南禅寺へ。南禅寺と言っているが、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺。
南禅寺三門は、その形から山門ではなく三門。日本一の規模。石川五右衛門が登った伝説もある。重要文化財。
そして法堂へ。豊臣秀頼の寄進によるが、明治28年に焼失、明治42年に再建された。天井の龍は今尾景年画伯によるもので、雲や雨をもたらし稲妻を放つと言われているが、仏法を守護してくれるものとして崇められており、一般には財宝を守ってくれるとの信仰もある。
南禅寺はその龍にあやかって、瑞龍山と言っている。
方丈庭園。禅院式枯山水で、借景式庭園。慶長年間の小堀遠州の作庭と言われている。
巨石等の姿から、「虎の児渡し」と呼ばれている。欄間は、左甚五郎の作。
左は小方丈庭園、別名「如心庭」。心字形に庭石を配置してある。
右は六道庭。天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道輪廻の戒めの庭で、我々は生まれ変わり続けるという仏教世界観を現わしているとのこと。
鎌倉時代の中期、文永元年(1264年)、亀山天皇は離宮禅林寺殿を営み、その後に天皇は禅宗に帰依し、正応2年(1289年)離宮で出家し法皇となった。南禅院は離宮の遺跡であり、南禅寺発祥の地。
庭園は鎌倉時代末の代表的池泉廻遊式庭園で、夢想国師の作庭。天竜寺庭園、苔寺庭園と共に京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されている。
建物は明徳4年(1393年)の火災で焼失、再び応仁の乱で失われるも、元禄16年(1703年)徳川綱吉の母桂昌院の寄進で再建された。
紅葉はもう見頃を終えてほとんどが散っていたが、池の水の中に落ちた紅葉は、葉がチリチリとならずに藻の緑の上に綺麗な色を見せていた。
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疎水の水道橋。
まるでローマ時代の水道橋のようだが、西洋化されつつある中の明治初期に日本人技術者だけで作ったという水道橋。
琵琶湖から水を引いており、上水道、灌漑用水、水運を目的として作られた。今なお水が流れている。
南禅寺へ。南禅寺と言っているが、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺。
南禅寺三門は、その形から山門ではなく三門。日本一の規模。石川五右衛門が登った伝説もある。重要文化財。
そして法堂へ。豊臣秀頼の寄進によるが、明治28年に焼失、明治42年に再建された。天井の龍は今尾景年画伯によるもので、雲や雨をもたらし稲妻を放つと言われているが、仏法を守護してくれるものとして崇められており、一般には財宝を守ってくれるとの信仰もある。
南禅寺はその龍にあやかって、瑞龍山と言っている。
方丈庭園。禅院式枯山水で、借景式庭園。慶長年間の小堀遠州の作庭と言われている。
巨石等の姿から、「虎の児渡し」と呼ばれている。欄間は、左甚五郎の作。
左は小方丈庭園、別名「如心庭」。心字形に庭石を配置してある。
右は六道庭。天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道輪廻の戒めの庭で、我々は生まれ変わり続けるという仏教世界観を現わしているとのこと。
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