以前に常滑焼きで有名な常滑に行ったが、今回は瀬戸に遊びに行ってみた。(常滑の様子は こちら

瀬戸の焼き物の歴史は、平安時代にまで遡り、鎌倉時代に陶祖の加藤四郎左衛門景正が中国で陶器を学んで帰って来たことで陶器を、そしてその後の江戸時代の後記(19世紀初頭)に、磁祖の加藤民吉が九州で磁器の生産方法を学び磁器の生産が始まることになった。それ以降は、旧来の陶器を「本業焼」と呼び、磁器を「新製焼」と呼んで区別したのだそう。

窯垣の小径 を散策。瀬戸の洞地区にある。
洞地区は、江戸時代以降、登り窯(本業窯)が盛んだった所で、その小径沿いには、瀬戸焼の陶器がはめ込まれていた。
資料館の方に教えて頂いたのだが、当時はこの狭い狭い道がメインの道路となって、大八車で出荷し、ゆくゆくは名古屋港まで運ばれたのだとか。
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道沿いには、門扉、灯篭、つくばい、植木鉢、敷石など全てが陶器製のお家も。
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窯垣の小径資料館 へ。
入館無料だが、丁寧にご説明くださり、休憩所ではビデオが観られたりお茶も頂けた。

登り窯で陶器を焼く際、焼き物を保護したり、焼き物を効率良く詰め込む為に使われた円柱形のエンゴロ、柱となるツク、柱の上に乗せるタナイタ(エブタ)を利用するが、使い古された物をそれぞれ垣根に使用したのだと教えて頂いた。
この資料館裏手にも何段にも組まれた窯垣があり、当時はこの母屋より高い所に職人さんの住居があったので、そこに通じていたという。
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本業焼の窯元であった寺田邸をそのまま公開していて、ここでは本業タイルの生産も行っていた。
本業タイルとは、明治時代になって洋風建築の流行と共に使われるようになったもので、まずは銅版画で型を作ってそれを紙に刷り、その後タイルに転写して造った(画像右が原盤やその紙)。全盛は明治、大正時代だが、昭和になると衰退してしまったという。
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この家の本業タイルのお風呂やお手洗いを見ることが出来た。
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本業窯
瀬戸には明治11年の往時には300以上の窯があり、洞地区だけで約150もの窯があった。江戸時代後期から陶器の本業製品を焼く窯としてこの登り釜が使用され、磁器は丸窯が使用されていた。

一室は間口が2メートルで奥行は20メートル。年に3~4回は火入れをして焼いており、職人さんは多い時で1日に300~400もの製品を作る為にロクロを回していて、昭和54年まで使われていた。
本業窯で現存しているものは、一里塚の本業窯とこの窯の2基のみ。
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その後、愛知県陶磁資料館へ行ったので、それについては こちら