7月に初めて下白川郷のひだ白川郷に行ったのだが(その様子は こちら)、秋の白川郷に再び行ってみることにした。

下白川郷 ひだ白川郷

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丁度紅葉もたけなわ。紅葉で赤く染まった山々に囲まれた白川郷だった。7月には青々としていた水田が全て刈り取られ、また違う雰囲気となっていた。
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白川八幡宮の前のイチョウも綺麗に色づいていた。

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この日は朝8時から消防訓練が行われたとのことで、普段は茅葺のミニチュアのような形で各戸の前にある消火栓が開かれていた(画像左)。
小腹が空いたので豚まんならぬ飛騨牛まんなるものを(画像右)。

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茅葺は乾燥させたススキから造られるが、丁度ススキを刈り取って干す時期だったよう。

上白川郷 荘川

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蕎麦街道に向かうまでの庄川沿いの紅葉も素晴らしい。ところどころに白樺が生えていて、白い幹と紅葉とのコントラストが綺麗だった。

昼食は蕎麦街道でお蕎麦を。前回も行ったが、美味しかったので再び 蕎麦正 で。

ひるがの高原

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標高1709メートルの大日ヶ岳が正面に見える。

白鳥(しろとり)白山中宮長瀧寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)長瀧白山神社・白山長瀧寺

ブログでお世話になっている しずこさん に教えてもらった長瀧白山神社に寄ってみた。
全く不勉強で、この長瀧白山神社などが白山文化の里であることなど後から知った。

白山文化 とは: (以下はパンフレットから抜粋)

加賀・越前・美濃・飛騨・越中の5国境にそびえる白山は富士山・立山と並ぶ三霊山のひとつ。古来、豊富な水の源である白山を水分神(みくまりのかみ)として崇めてきた。
奈良時代養老元年(717年)越前の僧である泰澄が白山を開踏し、白山信仰が形成されていく。
平安時代天長9年(832年)馬場(ばんば)が設けられ、白山中宮長瀧寺は白山中居神社を経て白山に昇る白山禅定道の基地として発展し、寿永2年(1183年)には「源平盛衰記」に載っており、鎌倉時代に白山の宗教や文化が美濃・尾張・三河・遠江・駿河にまで広がった。

平安時代末期、白山を崇拝していた奥州藤原3代秀衡が、白山の麓にある石徹白(いとしろ)に銅造虚空蔵菩薩坐像を寄進した。当時は、頼朝と義経の対立時期で、秀衡の仏像寄進の本当の狙いは白山山伏達とネットワークを通じて、頼朝支配地域の動向を探り、義経の奥州への逃避行を助けることにあった。義経の逃避行ルートは通説の北陸路と違い、伊勢・美濃を通ったと「吾妻鏡」の記述にある。

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白山長瀧の単線の駅のすぐ横に位置している。

白山長瀧寺
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奈良時代養老年間(717~724年)に上述の泰澄による創建。
明治時代の神仏分離令で長瀧白山神社と白山長瀧寺になった。

瀧宝殿
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木造釈迦三尊像 中央・釈迦如来、右・普賢菩薩、左・文殊菩薩(画像はパンフレットから)
国重要文化財で、中国宋時代の影響を受けた鎌倉時代後期の作。普賢菩薩は象、文殊菩薩は獅子の上の蓮華座に座っている。

長瀧白山神社
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イメージ 2上記パンフレットからの抜粋内容による秀衡が寄進した銅造虚空蔵菩薩坐像が安置されている石徹白大師堂は予約者のみ拝観可能とのことで観られず。

今回は時間がなかったので、白山文化博物館なども廻ることが出来なかったが、是非次回この地方に来る時には銅造虚空蔵菩薩坐像などを観てみたいなと。

帰りには郡上八幡に寄って、水まんじゅうを やなか屋 で。