名古屋市立美術館で「絵画と写真の交差」という展覧会をやっているので、行ってみた。

1 2
名古屋市立美術館の建物は、黒川紀章氏が設計。入口左側にはアレクサンダー・コールダーのカラフルな「ファブニール・ドラゴンII」。
入口右脇には、70年の大阪万博時に展示された黒川紀章氏の作品の一部がオブジェとして置かれている。

1 2
裏側にはアントニー・ゴームリーの「接近V」があったり、鳥居をモチーフにした建物があるなど面白い。

また、中庭には、金子潤氏の彫刻が2つあった。金子氏と言えば、NYのパークアヴェニューの中央分離帯に期間限定で大きな「HEAD」という彫刻の連作があったことを思い出した。その様子は こちら

「絵画と写真の交差」展

(以下の画像は名古屋市立美術館および各美術館HPより)
この企画展は、帯広、札幌、広島、松本と回って名古屋にやって来たもの。

写真が誕生したのは170年前、印象派が台頭したのは135年前。
カメラのもととなるカメラオブスキュラが絵を描くための装置として芸術家の間で活用されるようになったのは15世紀頃。
そしてそれが日本に入って来たのは1645年。出島のオランダ商館の送り状にその記述があるが、輸入車が気に入られずに返品となり、貿易商の倉の中に眠ることになった。
1780年頃、和製の反射式覗き眼鏡が作られ、からくりものが出てくることになる。鏡面の円筒状のものを絵皿の中央に置き、一見すると変な絵皿の柄が、その円筒に映るとちゃんと見えるという鞘絵皿など。それは、遠近法の原理を用いた西洋のアナモルフォーズ(歪像画)にあたる。

遠近法500年の扉

イメージ 1イメージ 2(左)ピーテル・ブリューゲル(子)の「農民の結婚式」1630年 油彩
(右)カナレットの「ローマ、ナヴォーナ広場」18世紀 油彩

ブリューゲルは父の絵をもとにし、左上に小さな人を描くことで遠近法を。
カナレットも遠近法を取り入れ、白い点描をすることで、光を表現するなどしている。

写真の誕生
1 ビアンキ工房製(フランス)1839年
世界で初めてカメラとして登場した、フランスのダゲールが発明したダゲレオタイプのカメラ。1839年に発表された。一枚しか得られず、版画として制作し複数枚を作った。ダゲールのライセンスをフランス政府が購入し、彼は裕福になる。
一方、ダゲレオよりも数カ月前にカメラを発明したフランス人のパヤールは、あいにく政府が彼の功績を認めず。
また、ほぼ同時にイギリスのタルボットがカロタイプと言われるネガとポジの写真を発明。複数枚の製作が可能となる。タルボットは初めて写真集を作った人でもある。

印象派誕生前夜 19世紀視覚の転換
徐々に写真が発達することで、画家から写真家に転向していく人もいた。
2
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル「ユピテルとテティス」1807-25年頃 油彩
アングルは、写真の禁止を政府に働きかける一方、自分はモデルの写真を写真家ナダールに撮らせ、それをもとに絵を描くなど、画家も写真へのスタンスに矛盾や模索をしていた。

イメージ 3イメージ 4(左)ギュスターヴ・クールベ「水平線上のスコール」1872-73年 油彩
(右)もとににしたのではないかと言われているギュスターヴ・ルグレイ「海景」プリント。
クールベの作品は、未だペインティングナイフで絵画的な技法。

2 2
(左)ナダール「ヴィクトル・ユゴーの肖像」1878年 プリント、(右)イードウィアード・マイブリッジ「動物の運動 ジャンプする馬」1887年 プリント
ナダールは、気球に乗って上空から写真を撮るなどもしていたとのこと。
マイブリッジは、12台のカメラを使って乗馬の動きを連続写真にし、それ以降乗馬の姿の絵画がよりリアルに変わった。

印象派誕生前夜 森の画家と写真家たち
2 ジャン・バティスト・カミーユ・コロー「ユディト」1872-74年 油彩
バルビゾン派は絵の具のチューブの発達によって屋外でも描くことが出来るようになる。
従来の風景画よりもより実際に忠実に描こうとしたことから、写真との交流が盛んとなる。

印象派誕生前夜 ジャポニズム
イメージ 5 歌川広重「名所江戸百景」 錦絵

印象派の誕生
1 2
(左)クロード・モネ「ノルマンディの田舎道」1868年 油彩、(右)クロード・モネ「プールヴィルの断崖」1882年 油彩
モネのこの2作には14年のへだたりがあり、その間に印象派が誕生。光の捉え方が大きく異なる。
印象派は時間の中の一瞬を一枚の絵に定着させようと試み、写真の特徴とも一致した。

1 ギュスターヴ・カイユボット「トルーヴィルの別荘」1882年 油彩
カイユボットは、木が全面に出るなど構図に日本の浮世絵の影響を受けている。彼は多くの作品をコレクションし、それらがオルセー美術館のもととなる。

1854年ドラクロワは、自らポーズをつけたモデルをカロタイプの写真家ドゥリューに撮らせ、デッサンしたが、ドガはマイブリッジの馬の画像に感化され、より写真に重きを置いた。

イメージ 6イメージ 7(左)エドガー・ドガ「三人の踊り子」1896-98年 クレヨン・パステル
(右)ドガの死後にアトリエで発見された写真「手を伸ばした踊り子」1895-96年 プリント

イメージ 8エドガー・ドガ「舞台の袖の踊り子」1900年頃 パステル

イメージ 9エドガー・ドガ「マネとマネ夫人像」1868-69年 油彩
ドガは友人マネ夫婦の絵を描いてマネに見せたところ、マネはマネ夫人の顔の描き方が気に入らずにその部分を切ってドガに送り返した。
その後、マネが描いてドガに送った静物画を今度はドガはつき返したというエピソードもある。

ピクトリアリズム
絵のような写真を撮ろうという動きも発生。
イメージ 10ロベール・ドマシー「舞台の裏で」1906年 プリント
写真だが、あえて絵画的に撮っている。

フランク・ユージンの「アダムとイヴ」でも、あえてアダムの背中辺りに引っかき傷があるようにしていたり、イヴの顔を消してみたりと手を加えた。
ウイリアム・モーテンセンの写真「壺にミルクを注ぐ女性」は、フェルメールの絵をモチーフにしている。

そして写真の舞台はアメリカに移っていく。

キュレーターの人に解説をしてもらったので、わかりやすくて良かった。