豊田市足助の雛祭りの展示「中馬のおひなさん」が明日までとのことで行ってみた。足助には紅葉の頃の香嵐渓を訪ねて以来になる。その時の様子は こちら
足助の約130ものお店や家が約2キロに渡ってそれぞれ持っている雛人形を無料展示するイベントで、今年で12回目となる。

イメージ 1

各お店や一般の家の軒先が、色々な雛人形で飾られているのは面白い。先日、徳川美術館に展示されている尾張徳川家の雛人形を観て来たが、それとはまた趣がことなっていて面白かった。徳川美術館とは異なり、雛人形の男女の並びは男雛が左、女雛が右が多かった。(徳川美術館の様子や、雛人形の起源&変遷、呼称、並び方については こちら

一番驚いたのは、この地方では女の子のみならず男の子が生まれた時にも、この雛人形を作っていたということ。
この地方は皆農家なので、5月は忙しく端午の節句を祝う余裕がないことから、新しく生まれた子供の家では、男女を問わず3月に誕生を祝っていた。(今現在は5月の端午の節句も祝うそうだが)
御殿飾りなどに見られる屋根の形の違いで、その家に生まれた子供が男の子か女の子かわかるのだそう。
しゃちほこなどが乗って上に高い屋根が男の子、屋根が平たいのが女の子の誕生に時に作られた雛人形とのこと。
1
左側は江戸時代、右側は大正時代のもので女の子誕生の祝いとして
1 2
左側:大正6年のもの
右側:昭和46年の女の子用のもの

そして土雛なるものも初めて見た。本町区民館では土雛だけを展示してあり、ボランティアの方が丁寧に説明して下さった。
1 2
左側:区民館の土雛
右側:明治後期~大正初期の土雛
三河土人形
産地は現在の碧南市。江戸時代後期に、京都とを行き来していた飛脚の杉浦佐与八という人物が、京都の伏見土人形を真似たのが始まり。また、碧南には、豊富な瓦粘土と瓦職人の技術があり、明治10年頃から旅役者の亀島久八が芝居の知識を生かし、歌舞伎の人形を考案してこの地方の土人形を発展させたのだとか。

庄屋さんなど蔵を備えた豪農は別として、昔は周囲一帯貧しい農家しかなく、雛人形や雛飾りを買うことが出来なかったので、雛人形1対だけを子供が生まれた家が用意し、親戚がお祝いに土人形を贈ったのだそう。
1 2
左側:御殿造は昭和29年の男の子のもの、土雛は大正初期のもの
右側:御殿造りなども昭和29年の男の子のもの
1
昔ながらの街並みの土間や軒先や座敷に雛人形が展示されているのだが、中には2階に展示されていて、通りから眺めるものもあった。
2 1
餅花は、厳密には雛祭りとは関係はないが、あちこちの軒先に飾られていた。お正月にお餅を立方体に切って枝に刺して華やかに飾り、後にはそのお餅を炒って食べたものだが、今は着色してより華やかなものとして2~3年通して使っているのだそう。
お米屋さんの軒先には、そのオリジナルの餅花があった(画像右側)
1 2
この2つの御殿造の雛人形など中馬館に展示してあったもの全ては、各地から寄付を受けたものとのこと。

勿論金屏風もあったが、御殿造は昭和30年~40年ぐらいから徐々に金屏風に変わって無くなっていったのだそう。

中馬(ちゅうま)とは
江戸時代に信州の馬稼ぎ人達が作った同業者組合のこと。
「貸馬」「中継馬」が語源と言われ、一般には伊那街道(飯田街道)で物資の運搬に従事した全ての人々のことを指す。この中馬と言われた人達が行き来したことから街道は「中馬街道」と呼ばれ、その中継地だった足助は、三河湾から塩、信州から米やタバコなどが集まる交易の町として栄えた。

かつて足助は過疎地域に指定されたことがあるそうだが、香嵐渓など地域にある観光資源を掘り起こし、町おこしを成功させ、「中馬のおひなさん」時でも約7万人が訪れているのだとか。

尾張名古屋の雛祭りの時のお餅である押し餅(おこしもの、おこしもん)を記事にしたが、この地方ではそれよりも「いが饅頭、いが餅」が主流とのこと。
いが饅頭の様子は こちら
同じ愛知県でも、尾張名古屋と三河では食文化も違うことが面白かった。