前日に続いて桜を観に行こうかと思ったのだが(前日の様子はこちら や こちら )、寒の戻りで未だ開花が早かったので、西三河の鰻で有名な一色町、吉良上野介で有名な吉良町、そして知多に行った。


鰻で有名なのは静岡県浜松市だが、実際の生産量日本一は浜松ではなく、愛知県の一色町。辺りには鰻の養殖用の建物が続く。

だったら、食べて帰らない手はないと、魚センター内の漁協がやっているお店へ。その様子は こちら。
また、新鮮なアサリが買えるかと近くのスーパーに行ったところ、さすが一色町のスーパーだけあって、鰻のみならず肝も売っていた。肝は8個入って150円。
思わず地元のアサリと鰻の肝を買って帰ったが、酒蒸しにしたアサリはプリプリ。肝は先日 岡崎で買った八丁味噌 を使って肝あかにしてみた。鶏レバー系を食べているようで美味しかった。
吉良町
忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(よしひさ)の領地だった所。実は地元の人にはとても人気のお殿様で、「吉良さん」と呼ばれていると以前から聞いていたので、どんな所か興味があった。
歴史民俗資料館
非常に小さな資料館だが、県指定文化財の岩場古墳出土品等の考古資料と、吉良義央公の系譜と、吉良町の塩業の歴史が説明されている。

岩場古墳から出土した埴輪と同じ製法による土製の円筒棺。古墳の埋葬施設としては珍しく、近畿地方を中心に20例ほどしか出土していない。中から装身具の勾玉や鉄刀があり、外側にも鉄製品が副葬されていた。

吉良家の江戸屋敷は、石高は4200石に過ぎなかったが、官位は大大名・老中並みの4位だったので、江戸屋敷も官位相応の規模で2550坪(東西132メートル、南北62メートル)と広大だった。赤穂浪士が吉良邸の図面を必要としたのもなるほどと。

吉良は昭和46年に国策で全廃になるまでは塩づくりで有名な場所で、昔は中馬街道を通って信州などに塩がもたらされていた。入浜式の塩田や塩焼窯なども展示されている。
正法寺古墳
墳長94メートルの前方後円墳

金蓮寺弥陀堂

国宝。文治2年(1186年)建築説もあるが、鎌倉時代中期の築造と考えられている。愛知県内最古の木造建築物。昭和29年に桧皮葺(ひわだぶき)に復元されている。
旧糟谷邸

領主大河内松平家の御用達を勤め、苗字帯刀を許された。主屋の東側部分がもっとも古く、宝暦13年(1763年)の祈祷札が見つかっている。

一階大小12部屋、2階は6部屋。仏間が建物の中心となり、奥の住居部分には、番頭と奥女中しか入れなかった。奥の更に置くには来客用の数寄屋造りの建物(4部屋)もある。屋敷は県指定文化財。
蔵が2つもあり、表千家久田流の久田栄甫の設計による茶室や庭園なども。戦前までは10棟を超える土蔵があったのだそう。


尚、尾﨑士郎記念館も併設されている。
華蔵寺(けぞうじ)
吉良家の菩提寺。代々、吉良家の人達のお墓がある。(写真で良くみかける吉良上野介義央の木造の像は一般公開されておらず。)


面白かったのは、とにかく何処をみても「討ち入り」「赤穂浪士」という言葉はなく、「元禄事件」と称されていること。吉良上野介義央が建てた経堂の解説には「あの忌まわしい元禄事件」と書かれている。



吉良町には赤馬という郷土玩具が存在するが、これは義央が赤馬に乗って領内を視察したのを機に作られた玩具だとされる。その玩具を集めた赤馬館なるものも。

尚、その赤馬をモチーフにした和菓子が銘菓となっている。その様子は こちら
主君の為に命を落としたという美談で赤穂浪士の物語は年末になるとドラマなどでも放映されて人気ではあるが、考えてみると、もともと松の廊下で刀を先に抜いたのは浅野匠頭長矩で、傷を受けたのは吉良上野介義央。浅野匠頭長矩は殿中抜刀の罪で切腹となり、何も吉良上野介に殺されたわけではないのだから仇討ではないし、法のさばきを甘受せず、逆恨みして相手の家に大勢で押し入って夜討にするというのは今で言ったらテロ行為かも???
知多半島 上野間祭
碧南市から知多半島の半田市に渡るトンネルがあるので、知多半島経由で帰宅することにした。

知多半島西側の道路を北上すると、いきなり車が大渋滞。なんと国道を山車が横断していた。聞いてみると、上野間祭とのこと。
お祭りの起源は古く元禄年間になり、野間神社に2台の山車が奉納され、丁度山車が納車されるべく国道を渡り、くの字になっている急な坂道を上がっていくところだった。
紙吹雪が撒かれており、通った道には紙吹雪が辺り一面にあった。
知多半島 常滑春の山車祭り
またまたお祭りに遭遇。
蓬莱車 東桜車



祭囃子が演奏される中、提灯が灯り、順次練り歩いて行く。


思いもかけず、2つもお祭りに遭遇でき、なかなか充実した一日となった。

一色町
海岸沿いでは、丁度2月末から解禁になった潮干狩りをする家族連れや、アサリ漁をして帰って来た漁師さん達。奥の杭は海苔の養殖場。

鰻で有名なのは静岡県浜松市だが、実際の生産量日本一は浜松ではなく、愛知県の一色町。辺りには鰻の養殖用の建物が続く。

養殖は1904年以来行われていたが、1959年の伊勢湾台風で大被害を受けた際、海岸近くの田畑を養鰻池に転換して以降発展し、1983年からは市町村別生産量日本一を続けており、年に6000トン前後を生産。これは日本全体の約4分の1に相当する。
だったら、食べて帰らない手はないと、魚センター内の漁協がやっているお店へ。その様子は こちら。
また、新鮮なアサリが買えるかと近くのスーパーに行ったところ、さすが一色町のスーパーだけあって、鰻のみならず肝も売っていた。肝は8個入って150円。
思わず地元のアサリと鰻の肝を買って帰ったが、酒蒸しにしたアサリはプリプリ。肝は先日 岡崎で買った八丁味噌 を使って肝あかにしてみた。鶏レバー系を食べているようで美味しかった。
吉良町
忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(よしひさ)の領地だった所。実は地元の人にはとても人気のお殿様で、「吉良さん」と呼ばれていると以前から聞いていたので、どんな所か興味があった。歴史民俗資料館
非常に小さな資料館だが、県指定文化財の岩場古墳出土品等の考古資料と、吉良義央公の系譜と、吉良町の塩業の歴史が説明されている。

岩場古墳から出土した埴輪と同じ製法による土製の円筒棺。古墳の埋葬施設としては珍しく、近畿地方を中心に20例ほどしか出土していない。中から装身具の勾玉や鉄刀があり、外側にも鉄製品が副葬されていた。

吉良家の江戸屋敷は、石高は4200石に過ぎなかったが、官位は大大名・老中並みの4位だったので、江戸屋敷も官位相応の規模で2550坪(東西132メートル、南北62メートル)と広大だった。赤穂浪士が吉良邸の図面を必要としたのもなるほどと。

吉良は昭和46年に国策で全廃になるまでは塩づくりで有名な場所で、昔は中馬街道を通って信州などに塩がもたらされていた。入浜式の塩田や塩焼窯なども展示されている。
正法寺古墳
墳長94メートルの前方後円墳

金蓮寺弥陀堂

国宝。文治2年(1186年)建築説もあるが、鎌倉時代中期の築造と考えられている。愛知県内最古の木造建築物。昭和29年に桧皮葺(ひわだぶき)に復元されている。
旧糟谷邸

先祖は筑前国の郡司で鎌倉に下って足利氏の家臣となり、一門の吉良氏に従い東条城下に移り住んだ。永正2年(1505年)に、初代が萩原村に移住帰農し、以降14代が昭和56年に没するまでの470年間在住した。この地域の大地主として、三河木綿問屋、13代当主が明治27年(1894年)に西尾銀行の頭取になったり、西尾鉄道の大株主として出資したり、北海道から鰊粕を買いつけた肥料商業や、日用雑貨の卸小売、山林経営、廻船業などで財をなした豪農豪商。
領主大河内松平家の御用達を勤め、苗字帯刀を許された。主屋の東側部分がもっとも古く、宝暦13年(1763年)の祈祷札が見つかっている。

一階大小12部屋、2階は6部屋。仏間が建物の中心となり、奥の住居部分には、番頭と奥女中しか入れなかった。奥の更に置くには来客用の数寄屋造りの建物(4部屋)もある。屋敷は県指定文化財。
蔵が2つもあり、表千家久田流の久田栄甫の設計による茶室や庭園なども。戦前までは10棟を超える土蔵があったのだそう。


尚、尾﨑士郎記念館も併設されている。
華蔵寺(けぞうじ)
吉良家の菩提寺。代々、吉良家の人達のお墓がある。(写真で良くみかける吉良上野介義央の木造の像は一般公開されておらず。)


面白かったのは、とにかく何処をみても「討ち入り」「赤穂浪士」という言葉はなく、「元禄事件」と称されていること。吉良上野介義央が建てた経堂の解説には「あの忌まわしい元禄事件」と書かれている。



吉良町には赤馬という郷土玩具が存在するが、これは義央が赤馬に乗って領内を視察したのを機に作られた玩具だとされる。その玩具を集めた赤馬館なるものも。

尚、その赤馬をモチーフにした和菓子が銘菓となっている。その様子は こちら
主君の為に命を落としたという美談で赤穂浪士の物語は年末になるとドラマなどでも放映されて人気ではあるが、考えてみると、もともと松の廊下で刀を先に抜いたのは浅野匠頭長矩で、傷を受けたのは吉良上野介義央。浅野匠頭長矩は殿中抜刀の罪で切腹となり、何も吉良上野介に殺されたわけではないのだから仇討ではないし、法のさばきを甘受せず、逆恨みして相手の家に大勢で押し入って夜討にするというのは今で言ったらテロ行為かも???
知多半島 上野間祭
碧南市から知多半島の半田市に渡るトンネルがあるので、知多半島経由で帰宅することにした。

知多半島西側の道路を北上すると、いきなり車が大渋滞。なんと国道を山車が横断していた。聞いてみると、上野間祭とのこと。
お祭りの起源は古く元禄年間になり、野間神社に2台の山車が奉納され、丁度山車が納車されるべく国道を渡り、くの字になっている急な坂道を上がっていくところだった。
紙吹雪が撒かれており、通った道には紙吹雪が辺り一面にあった。
知多半島 常滑春の山車祭り
またまたお祭りに遭遇。
蓬莱車 東桜車


後で調べてみると、常滑の春の山車祭りはこの週末から始まり5月最初の週末まで、週末ごとに各町内の神社に山車が奉納されるもので、我々が観たのは大谷地区の八幡社に奉納された蓬莱車(ほうらいしゃ)と東桜車(とうおうしゃ)だった。

祭囃子が演奏される中、提灯が灯り、順次練り歩いて行く。


カーブの所では、道路に山車の車輪の後が残っていた。
思いもかけず、2つもお祭りに遭遇でき、なかなか充実した一日となった。
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