名護のホテルから名護湾を望む。この日は終日曇りだったが、それでも海がとても綺麗な色だったのには驚いた。
枝サンゴや小さな貝などが砂浜にうちあげられていた。


ボランティアガイドさんがおられたので、説明をして頂いた。
ユネスコの世界遺産に登録されている琉球王国以前の三山時代の北山王の居城。
三山時代とは、琉球王国成立(1429年)以前に、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の3つの国に分かれてそれぞれ国王が居た時代のことで、中山王の尚巴志(しょうはし)が北山王と南山王を(1416年 or 1422年に)滅ぼして琉球王国をたてた。
1422年中山は北山に監守制度を敷き、反乱を防ぎ、監守一族が首里に引き揚げた1665年まで続いた。その後の今帰仁城は、政治の場から祭祀の場へと変貌して行った。
沖縄本島には約200、離島にも約100ほどのお城(グスク)があるとのこと。
平郎門
1962年に復元されたもの。この門をくぐって石段を上がっていくのだが、本来はスロープのみで石段ではなかった。戦争後の昭和34年、アメリカ軍が車で上がってくるのを防ぐ為に石段に変えたのだそう。

「島唄」で有名になったでいごの木があった。花の時期には赤い花をつける。中国から渡って来た木だが県花になっており、沖縄が生育の北限。
現在も発掘作業がされているが、下の方のエリアもこのお城に属すると認められたので、首里城より面積は大きい。

琉歌の碑。作者は不明。和歌や短歌とはやや異なり、琉歌は、8・8・8・6で構成されていて、楽器のサンシンに合わせて歌う。
話されていた日本語には、母音のア・イ・ウしかなく、エ・オは存在しない。例えば、米「コメ」は「クミ」、心「ココロ」は「ククル」と発音される。
主郭
建物は板張りと茅葺きの屋根あった。当時、瓦屋根のお城は首里など3つのみ。


ここからの眺めは素晴らしい。屋我地島から橋でつながった古宇利島も見える。
島版のアダムとイブの伝説があり、天から餅が降って来たと言われているのだそう。
当時から中国との進貢貿易が盛んで、中国からは絹・漢方薬・陶器が輸入され、沖縄からは馬と硫黄が輸出されていた。鉄は沖縄では採れない。
また、面白いことに沖縄料理には欠かせない昆布は沖縄では採れず、本土(内地)からサトウキビとの引き換えとして取引されていた。

火の神様をまつった祠である「火の神ひぬかん」

現在・過去・未来を表す3つの石が置かれ、お線香をあげる。
画像のお線香は短く折れてしまっているが、一本一本が横にくっついたもので、それを割って一本にする。下の黄色いものはお金のスタンプが押されたもので、一緒に燃やす。
神主さんと同等の女性のノロや、占いをするユタが、祈りを捧げる。

城内に散らばっている岩肌にははっきりとアンモナイトが見られ、この地が昔は海だったことがわかる。
備瀬の漁村はとても静か。護岸の辺りですら非常に海が綺麗だった。

福木(フクギ)並木
方言名ではプクーギ
フィリピン原産の福木は、樹齢推定250~300年。高さ15~20メートル。
防風林として植えられたフクギが成長してトンネルのようになっている。

昔からの伝統的な家も残っていて、門や囲い(この家では垣根)の奥の母屋の前についたてのように配置されたヒンプンがあった。魔物の侵入を防ぐ意味のもので(実際には目隠しにもなる)、昔は男性は右側から、女性は左側から出入りする習慣があったのだそう。
昼食は創業100年を超える沖縄そばのお店のきしもと食堂へ。その様子は こちら
すぐ近くに市場があったので立ち寄ってみたが、おばあさん二人の会話や、電話で話をしているおばさんの言葉も、全く何語を話しておられるのかもわからないぐらい我々にとっては外国語状態だった。。。


お肉屋さんがあったので入ってみた。おばあさんのお客さんがテビチ(豚足)などを買いに来ておられたが、とってもフレンドリーで、大きな袋にテビチが一杯入っているので、たくさん買われるんですね、と言うと、一回分ぐらいとのこと。。。
船で本土に行った話などをしてくれた。お店のおばさんも、沖縄のお正月に来ると楽しいよと話してくれた。

国指定天然記念物になっている塩川は、海岸線から150メートルほど陸地内部の海抜1.20~1.42メートルの岩間から、常時塩水が湧いているという珍しい川。何故塩の川が湧きだしているのかは、岩塩ではないそうだが、確定的な理由は未だわかっていない。
塩水の流れる川は、世界でもこの塩川とプエルトリコの2か所しかない。
小魚が何匹も泳いでいた。

その2 に続く

枝サンゴや小さな貝などが砂浜にうちあげられていた。


今帰仁城跡(なきじんじょうあと)

ユネスコの世界遺産に登録されている琉球王国以前の三山時代の北山王の居城。
三山時代とは、琉球王国成立(1429年)以前に、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の3つの国に分かれてそれぞれ国王が居た時代のことで、中山王の尚巴志(しょうはし)が北山王と南山王を(1416年 or 1422年に)滅ぼして琉球王国をたてた。
1422年中山は北山に監守制度を敷き、反乱を防ぎ、監守一族が首里に引き揚げた1665年まで続いた。その後の今帰仁城は、政治の場から祭祀の場へと変貌して行った。
沖縄本島には約200、離島にも約100ほどのお城(グスク)があるとのこと。
平郎門
1962年に復元されたもの。この門をくぐって石段を上がっていくのだが、本来はスロープのみで石段ではなかった。戦争後の昭和34年、アメリカ軍が車で上がってくるのを防ぐ為に石段に変えたのだそう。

「島唄」で有名になったでいごの木があった。花の時期には赤い花をつける。中国から渡って来た木だが県花になっており、沖縄が生育の北限。
現在も発掘作業がされているが、下の方のエリアもこのお城に属すると認められたので、首里城より面積は大きい。

琉歌の碑。作者は不明。和歌や短歌とはやや異なり、琉歌は、8・8・8・6で構成されていて、楽器のサンシンに合わせて歌う。
話されていた日本語には、母音のア・イ・ウしかなく、エ・オは存在しない。例えば、米「コメ」は「クミ」、心「ココロ」は「ククル」と発音される。

建物は板張りと茅葺きの屋根あった。当時、瓦屋根のお城は首里など3つのみ。


ここからの眺めは素晴らしい。屋我地島から橋でつながった古宇利島も見える。
島版のアダムとイブの伝説があり、天から餅が降って来たと言われているのだそう。
当時から中国との進貢貿易が盛んで、中国からは絹・漢方薬・陶器が輸入され、沖縄からは馬と硫黄が輸出されていた。鉄は沖縄では採れない。
また、面白いことに沖縄料理には欠かせない昆布は沖縄では採れず、本土(内地)からサトウキビとの引き換えとして取引されていた。

火の神様をまつった祠である「火の神ひぬかん」

現在・過去・未来を表す3つの石が置かれ、お線香をあげる。

神主さんと同等の女性のノロや、占いをするユタが、祈りを捧げる。

城内に散らばっている岩肌にははっきりとアンモナイトが見られ、この地が昔は海だったことがわかる。
備瀬


福木(フクギ)並木
方言名ではプクーギ
フィリピン原産の福木は、樹齢推定250~300年。高さ15~20メートル。
防風林として植えられたフクギが成長してトンネルのようになっている。

昔からの伝統的な家も残っていて、門や囲い(この家では垣根)の奥の母屋の前についたてのように配置されたヒンプンがあった。魔物の侵入を防ぐ意味のもので(実際には目隠しにもなる)、昔は男性は右側から、女性は左側から出入りする習慣があったのだそう。
昼食は創業100年を超える沖縄そばのお店のきしもと食堂へ。その様子は こちら
すぐ近くに市場があったので立ち寄ってみたが、おばあさん二人の会話や、電話で話をしているおばさんの言葉も、全く何語を話しておられるのかもわからないぐらい我々にとっては外国語状態だった。。。


お肉屋さんがあったので入ってみた。おばあさんのお客さんがテビチ(豚足)などを買いに来ておられたが、とってもフレンドリーで、大きな袋にテビチが一杯入っているので、たくさん買われるんですね、と言うと、一回分ぐらいとのこと。。。
船で本土に行った話などをしてくれた。お店のおばさんも、沖縄のお正月に来ると楽しいよと話してくれた。
塩川

国指定天然記念物になっている塩川は、海岸線から150メートルほど陸地内部の海抜1.20~1.42メートルの岩間から、常時塩水が湧いているという珍しい川。何故塩の川が湧きだしているのかは、岩塩ではないそうだが、確定的な理由は未だわかっていない。
塩水の流れる川は、世界でもこの塩川とプエルトリコの2か所しかない。
小魚が何匹も泳いでいた。

その2 に続く
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