
ホテルの朝食バイキング。
お椀の中はゆし豆腐。そこから時計周りに紅芋とサツマイモ、ラフテー、沖縄そばの焼きそば、ゴーヤチャンプルー、グルクン(魚)の天麩羅、イカスミのソーセージ、豚と昆布のクーブイリチー。
壺屋やちむん通り界隈
1682年(尚貞王14年)に、やちむん(焼物)の生産技術向上を図る為に、それまで美里間切(みさとまぎり)の知花窯、首里の宝口(たからぐち)窯、那覇の湧田(わくた)窯の3か所の窯場を、壺屋に統合したのが始まり。現在でも焼物は壺屋焼の名称で知られている。ニシヌメー(北の宮)
「ニシ」とは沖縄の方言で北のこと。
以前はこの場所にニシヌ窯と呼ばれる登り窯があったが、大正7年に窯を崩して大和風のお宮を造り、土地の守り神である土帝君(トーティークン)と焼物の神様が祀られてニシヌメーと名付けられた。

南又窯(フォーヌカマ)
長さ約20メートル、幅約3メートルの登り窯。間仕切りはなくトンネル状。窯を覆う赤瓦の屋根は耐火性のある琉球石灰岩の石柱となっている。



すーじ小道は青々とした生垣や木々に覆われている。
ビンジュルグヮー(=ビジュル)
壺屋の土地や集落を守るタチクチ(村建て)の神様を祀っている所。毎年旧暦1・3・6・8・9・12月の壺屋の拝みが行われる。壺屋の全ての行事がここから始まり終わると言われている大切な場所なのだそう。

東又窯
あいにく改修工事の為に中には入れなかったが、赤瓦にはシーサーが乗って、周囲もなかなか良い雰囲気。

東ヌカー(アガリヌカー)
村ガー(共同井戸)の一つ。300年ほど前に村が出来た時に最初に掘られた井戸。

今帰仁の町を散策していても見かけた「石致當」の文字。最初は地名かと思ったのだが、各コーナーに貼ってあるようなので、偶然そこでお店の軒の掃除をしていた女性に聞いてみたところ、道から魔物(まじむん)がやって来るのでその魔除けとのこと。
そこで少し調べてみた。
魔物が道を直進してT字路に突き当たると曲がりきれずに突き当たった家に入って来るという言い伝えがあり、魔物が入ってきそうな垣根や住宅の壁にこの「石致當(あるいは石巌當)」を貼って厄除けにする。以前は「泰山石敢當」と刻まれていた。
もともと中国からの伝来で諸説ある:
・後漢時代の英雄だった武将の名前説
・無敵だったと言われる力士の名前説
日本本土でも見られるそうだが、非常にまれとのこと。
首里城
ユネスコの世界文化遺産。1429年、3つに分裂していた琉球を尚巴志が統一して成立し、1879年に首里城を明け渡すまで続いた王国。だが、ほとんどが戦争で消滅し、現在のものは1992年に復元されたもの。

守礼門
「守禮之邦」とは、琉球は礼節を重んじる国という意味とのこと。

園比屋武御巖石門(そのひゃんうたぎいしもん)
国王が場外へ外出する時に安全を祈願したとされたものだが、石門とその奥の森を多麩の祈願所とし、石門は神社で言う拝殿にあたる。本殿はなく石門の後ろの森が本殿にあたる。
創建は1519年で、1933年に国宝となったが、沖縄戦で大破し、1957年に復元され解体修理後の1986年に完成。屋根の飾りなど日本と中国の様式が合わせられた沖縄独特の建築となっている。
世界文化遺産にも登録されている。


瑞泉門(ずいせんもん)
石段途中の右に泉があり、王宮の飲み水として使われ、中国から使者がやって来た時も、那覇港近くの宿舎までこの水が運ばれたのだとか。双璧の石門の上に櫓が乗っていて、形式は日本本土のお城の門と共通している。創建は1470年頃だがこれは復元されたもの。

歓会門
アーチ門の上に木造の櫓があり、シーサーが乗る。
広福門
福を行き渡らせるという意味で、建物が門となっている。向かって左側が士族の財産を巡る争いを調停する大与座(おおくみざ)、右側が神社仏閣を管理する寺社座という役所になっていた。復元。

正殿
高さ18メートル、幅29メートルの3階建てで、沖縄最大の木造建築。
龍が描かれているが、中国で描かれている龍は5本指だが、ここのは4本。中国に一応遠慮してとのこと。

1階に入ると、遺構を見ることが出来る。戦火と失火によって4回も焼失しており、現在の正殿は、本来の遺構を保護する為に約70センチほど高く造ってあるのだそう。


1階(左の画像)で政治、2階(右の画像)で王家の行事が行われ、2階の向かって右側南東の隅には「おせんみこちゃ」と言われる場所があり、女官が「火の神ひぬかん」を拝礼していた。国王は政治を行う場合、2階から階段を下りてやってくる。
正殿の奥一帯は御内原(おうちばら)と呼ばれて王家と女官の生活の場となっており、女官が管轄していて男子禁制。当時は王様一人で奥方様は複数。
中国の宮殿建築の影響や構造や細部の意匠には日本の建築様式が取り入れられた琉球独特の建造物となっている。現在復元されたものは、18世紀初めに再建されて沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルにしている。
赤い柱や、その手前の砂岩で出来た大龍柱は、右が「阿」左が「吽うん」となっていて、仁王像と同じように口を開いているのと閉じているのとになっている。

王冠(レプリカ)金、銀、水晶、碧玉、ガラスなどで飾られている。

正殿の前の御庭(うなー)には赤の縞模様の敷瓦が敷かれ、役人達が儀式の時に自分の立ち位置を確認する目安としていたのだそう。ただし、首里城は長方形ではなく、正面がややゆがんでおり、全てそれは風水に基ず居た建築となっている。
係の人達はみな、当時の服装を着ておられる。
彼方に海が見える眺望も素晴らしい。


中国との国交は1372年から始まり、明治12年(1879年)に沖縄県が設置されるまで続いた。
中国・明の時代には、進貢貿易を行い、他国とは異なり琉球王国は中国から優遇措置を受けており、一番多く明と行き来し、中国から進貢船まで与えられ、中国の福州には琉球領事館を置いていた。
参勤交代のように1634年~1850年の間に、国王の代替わりと江戸幕府将軍の就任ごとの計18回にも渡って江戸まで使節団を「江戸上がり」することが義務付けられていた。
また、浦賀にペリーがやって来る前に、琉球に寄港していた。
因みに、王朝はなくなったが、今でも末裔の人は「尚」姓を名乗り、すぐ近くに住んでおられる方と、は現在東京に住んでいる方がおられるのだそう。
書院手前の鎖之間(さすのま)は皇子の控えの間だったが、復元された現在は、お茶と伝統菓子が頂けるとのことだったので行ってみた。
2004年に庭を写した古い写真が発見され、それをもとに再現されている。庭がある城(グスク)は首里城だけ。
庭は和風とは異なり、琉球石灰岩とソテツなどが使われいていた。


わずか300円で、さんぴん茶と琉球菓子4種類がいただけ、解説もしてもらえる。
王朝時代には161種類もの御菓子があり、中国茶や日本茶が飲まれていたのだそう。
お菓子の種類 画像左の左側
花ぼうる: 卵黄・砂糖・小麦粉で作った生地を焼いたもの。南蛮菓子で、江戸時代に江戸でも食べられていたが、現在は沖縄にしか残っていない。
右手前から
ちんるいこう:卵を使った蒸し菓子。上には赤く染めたピーナッツやオレンジの皮を使ったきっぱんと言われるものを乗せている。
くんぺん:卵黄・砂糖・小麦粉で作った皮に胡麻やピーナッツの餡を入れて焼いたもの。歓待料理や祭祀に使われた御菓子。現在では、日常としたり、法事用のお菓子として用いられている。
ちんすこう(きんそこう):ラード・砂糖・小麦粉の生地を焼いたもの。王朝時代は子供の手ぐらいの大きさの菊の形をしていたが、アメリカのクッキーの型が入って来てから食べやすいように長方形に変わった。
お茶は香片茶(さんぴんちゃ ジャスミンティ)
お茶の器は壺屋焼で、お盆は琉球漆器でとても綺麗だった。
首里城を後にし、中城や中村家住宅を見学。その様子は その2で
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