那覇・首里城界隈の観光 3日目その1 からの続き

金城町(きんじょうちょう)の石畳道

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首里城と那覇を結んだ主要道は、首里の主要な道が改造され始めた1522年(尚真王46年)頃に造られた。琉球石灰岩を使い、路面は大小を合わせた乱れ敷き、石垣は沖縄独特の石積み手法の「あいかた積み」。
ほとんどが沖縄戦で破壊され、現在はこの金城道の300メートル幅4メートルほどだけが残っている。

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途中には村屋があり解放されている。

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その1 での壺屋でも各家々にシーサーがあったが、ここにも。シーサーと言っても色々と種類があり表情も千差万別だったので、追ってシーサーの記事を3日目その4で。

       
金城大樋川(カナグシクウフフィージャー)

共同の井戸





首里城そばの 古都首里の嘉例山房 で ぶくぶく茶 なる伝統的なお茶を頂き、山城まんじゅう でお饅頭を。その様子は こちら  と こちら

中城(なかぐすく)城跡

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ユネスコの世界遺産。







座喜味城と同様、護佐丸(ごさまる)によって築かれた。もともと座喜味城に居た護佐丸は、首里王府に対抗する勝連城主の阿麻和利(あまわり)を牽制するために、琉球国王の命令により移り住まわされた。しかし逆に、勝連城主の阿麻和利に攻められてしまい、自害することとなった。(座喜味城と勝連城の様子は こちら
この城は、連郭式の山城で、6つの郭からなり、遺構が良く残っている。石組も野面積み、布積み(豆腐積み)、あいかた積み(亀甲乱れ積み)の3種類あるのだそう。
ペリーが沖縄に来た時にも、ここの立ち寄ったとのこと。
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とにかくここからの眺望が素晴らしい。西の東シナ海、東の中城湾(太平洋)が見渡せる。

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       ここにも火の神(ひぬかん)を祀る場所が。

クロアゲハがあちこちに居た。

中村家住宅

国の指定重要文化財。係の方が丁寧に説明して下さった。
約500年前に、中村家の先祖の賀氏(がうじ)が、上記の護佐丸(ごさまる)が中城に読谷(よみたん)より移った時に共に移り住み、護佐丸が阿麻和利(あまわり)に滅ぼされてしまった時に離散したが、その後の1720年頃にこの地方の地頭職(本土でいう庄屋のような役職)に任ぜられた。
この建物はもともと、首里族の士族が使っていたが、1609年に首里に薩摩藩が進攻した時に撤退。後に豪農だった中村家がその建物を移築し住むことになったもので、鎌倉・室町時代の日本建築の流れのある士族屋敷の形式に、農家の形式である高倉、納屋、畜舎などが追加された。
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入口には塀の奥にひんぷん(顔隠し塀)
中国の「屏風門 びんふぉんめん」が沖縄化したもので、直接母屋が見通せないようにした目隠しでもあるが、道教に基づく思想により邪気が入口から入って来ないようにということもある。昔は、男性は右側から、女性は左側から入っていた。
母屋の向きは実は東に5度ずれている。風水によるもので、首里城も同様。




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瓦屋根にはシーサーが乗っているが、改築後のもので、昔から乗っていたシーサーは画像右。戦争時に、火から家を守ったシーサーということになる。


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アシャギ(向かって右側の離れ座敷) は、母屋と違いがある。




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首里王府の役人が地方巡視の時に泊った場所。母屋の瓦屋根の端には模様がほどこされていないが、客人用の離れ座敷の瓦屋根は立派になっている。屋根の裏側も同様に造りが異なり、離れ座敷の屋根裏は板になっている。
尚、明治22年から庶民も瓦屋根を使うことが許可されたそうで、玄関の入口両脇などにあるシーサーは家人の趣味で置かれるものだが、屋根の上のシーサーは家人ではなく瓦職人が選んで設置するのだそう。

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ウフヤ(母屋)
 
手前から一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)となっていて、各部屋は6畳以下と当時の農民には大きな部屋は許されていなかたのだそう。
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女性は一番座にお茶を出すことはあっても、一緒に接客などをすることはなく、入れても二番座までだった。
女性は他の集落に嫁ぐことは禁止されており、裸足。

仏教信仰はなかったので、二番座の仏間には仏様の像はなく、大きな位牌が。次男やお嫁に行かなかった女性などの位牌は正面の大きな位牌ではなく、横の障子奥の下った位置に位牌が置かれているのだそうでその位牌は見ることが出来ない。

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板の間の奥には大きな壺。
豚肉料理が有名な沖縄だが、豚は1372年に中国との国交が始まってから中国人が豚を連れて来たのが始まり。ただし、豚を食べだしたのは明治になってからと新しく、沖縄の豚であるアグーはこの壺に塩漬けにされ、お正月などだけに食べられた。普段は、粟、ヒエ、豆類が主食で、お米を作っていても全て年貢米として作るのみで農家が食べることはなかった。


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高倉
沖縄在来の形式である丸柱ではなく住居と同じ角柱で板貼り。ネズミ返しの為に傾斜がつけられた形となっている。






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メーヌヤー(家畜小屋、納屋、使用人の住居)
一階部分に牛と馬と山羊がつながれ、牛などがつながれる場所の床の真ん中部分に穴が開いていて、排泄物が流れるようになっている。二階には10名以上の使用人が住んでいた。



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フール(豚小屋)
家畜小屋の奥には豚小屋があるのだが、人間のトイレも兼ねていて、人間が右側の部分で排泄をするとそれが豚小屋に落ちて餌となり、豚の排泄物は家畜小屋に流れ、他の牛や馬や山羊の排泄物と合わさって、使用人が堆肥として農耕地に運んでいた。
そのような小屋の上で使用人が寝泊まりしていたのでは相当臭かったのでは?とお聞きしたのだが、当時は屋根のある所で寝られるだけでも彼らは幸せだったとのこと。。。

入場料を支払ったこともあるが、冷たいさんぴん茶と茶菓子、黒糖を頂けた。
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その3 へ続く。