指宿

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早朝から砂蒸しが利用できるとのことだったので、前日にも入ったが、今度は朝日を見ながら砂蒸しへ。
砂蒸しの後に入るお湯には、登っていく太陽が映って綺麗だった。

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長崎鼻 & 開聞岳

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イメージ 19長崎鼻と言われる岬界隈からは、開聞岳が非常に綺麗。
開聞岳は、標高924メートル、下部がコニーデ型、上部がトロイデ型からなる二重火山。円錐形のフォルムから「薩摩富士」とも呼ばれている。


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長崎鼻の辺りは開聞岳が火山ということを示すような溶岩が冷えて固まったものや軽石などがあった。
水が非常に綺麗で、小さな青い熱帯魚も。
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家の生垣やあちこちでみかけたバンマツリ(蕃茉莉)という花。「kiss me quick」という英名があり、花の色が紫から白に変化するが、とにかく凄く良い香りがする。









知覧

江戸時代の面影を残す武家屋敷があることから「薩摩の小京都」と言われる。
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島津家の分家である佐多氏が地頭をして治め、薩摩藩の中でも重臣を担った。その功績により、佐多氏16代久達の時代(1651~1719年)に知覧の私領地化と島津姓の使用が許可された。
薩摩藩では、「仮屋」と呼ばれる領主館を囲むように家臣が住居を構え、「麓」という集落を形成し、これを藩内に113配して外的の侵入に備えた。その方法は「人をもって城となす」という外城(とじょう)制度によるもの。

上記16代久達もしくは、佐多氏18代島津久峯(1732~1772年)の時代にこれらの武家屋敷群は造られたと推定されており、そのうちの7つの武家屋敷庭園が国の指定文化財となっている。

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入口にひんぷんと呼ばれる塀がある家もあった。目隠し用とも邪気を払う為とも言われるもので、先日、沖縄で見たひんぷんとそっくり。江戸時代に知覧港が琉球貿易の拠点だったことがわかる。沖縄の様子は こちらこちら

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森重堅庭園

森家は重臣で、寛保元年(1741年)に建てられたもの。7つある庭園のうち唯一の池泉庭園。



旧高城家住宅
知覧型二ツ家民家。住居用の「おもて」と台所や土間の「なかえ」を小さな棟で繋いだ分棟式民家で、知覧のものは棟をつなぐ形状がL字型なのが独特。「おとこ玄関」「おんな玄関」と分かれてもいる。おとこ玄関(画像右の明るい左側)からは当主と長男と来客が、おんな玄関(画像右の右側)からは妻や次男以下が用いたとされる。
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イメージ 7佐多民子庭園
巨石や奇岩を積み重ねた構成。
建物からの飛び石などが他の庭園にはない。


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佐多美舟庭園

寛延4年(1751年)に造られ、知覧庭園の中では最も豪華で広い庭園。


イメージ 9二ツ家
知覧型二ツ家民家。住居用の「おもて」と台所や土間の「なかえ」を小さな棟で繋いだ分棟式民家だが、生活上不便が多く、次第に近付くようにされた。
雨戸の戸袋を一つにして、そこから雨戸を2面にはめる為、曲がった角の部分では、雨戸が角度を変えられるようなしくみになっている。
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イメージ 11ここでは、伝統菓子が縁側で頂けるとのことだったので注文。
左は「げたんは」。形が下駄の歯に似ていることから名づけられたもので、黒砂糖が良くしみたスポンジケーキ風のお菓子。
右は「あくまき」。木炭汁(あく汁)に漬けて黄色く染まった純粋なもち米を竹皮に包んで長時間炊き上げた鹿児島独特の餅菓子で、戦陣の保存食として発達し、やがては端午の節句に食べられるようになったもの。
そして知覧と言えば知覧茶。深蒸しのお茶はとても濃厚で甘くて美味しい。
げたんはとお茶のセットは150円、あくまきとお茶のセットは200円とお安いのには驚いた。

イメージ 13平山亮一庭園
石組が全くなく、イヌマキによる遠山に高い峯を見せ、前方にサツキ、さらに(画像にはないが)母ヶ岳を借景に取り入れている。

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平山克己庭園
同じく母ヶ岳を借景に取り込んだ庭園。

西郷恵一郎庭園
石組で枯滝の峯を表現しているとも、鶴を表現しているので「鶴亀」の庭園とも言われる。
GW期間中、お座敷にあげてもらえ、家に伝わる甲冑も展示されていた。
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佐多直忠庭園

家の門の前には大きなひんぷんの切り石があり、そこから生垣のアーチをくぐって庭に入る。
鹿児島城下の禰田という建築家の手による。一度は一棟を解体して規模を縮小したが、現在建物を増築して復元されている。



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知覧は茶処というだけあって、あちこちに茶畑があった。









その後、北上して熊本は天草へ。その2に続く。