3日目その1からの続き  鹿児島を後にし、一路熊本は天草へ移動。

天草諸島には大小120もの島があり、三角(みささ)から天草五橋を通って大矢野島、天草上島、そして天草下島の本渡(ほんど)までの17.4キロにわたる天草パールラインからの景観が良い。
まず本渡まで行った。

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天草は車海老の産地でもある。
海岸線には養殖のいけすがいくつもあり、空気を送り込む為なのか理由はわからないが、エンジンのようなものが水を撹拌していた。


本渡(ほんど)は、その5つの橋を渡りきった天草上島と下島を結ぶ位置にあり、天草・島原の乱の激戦地ともなった場所。

天草切支丹館 (改装中の為、本渡歴史民俗資料館の上階に仮移転中)
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天草と言えば切支丹。キリスト教が天草に初めて伝えられたのが永禄9年(1566年)、ポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダによる。その後、キリシタン大名の小西行長の所領となると多くの島民が信者となり、宣教師を養成するコレジョも設置されるなどした。しかし、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、天草は肥前唐津領主の所領となり、禁教から弾圧と過酷な年貢の取り立てが行われた。耐えかねた天草と島原の島民は、寛永14年(1637年)10月25日に、天草四郎時貞を総大将として武装蜂起し、「天草・島原の乱」が勃発。天草一揆軍は富岡城を、島原一揆軍は島原城を攻める江戸期最大の一揆となった。しかし、翌年2月28日には幕府軍の総攻撃により籠城した原城も陥落し一揆軍全員討死となった。幕府軍は12万5千人、一揆軍は天草勢が1万4千人、島原勢が2万3千人とのこと。、明治になって解禁されると教会が復興した。
画像左: この旗は、天草・島原の乱で原城本丸に掲げられていて、鍋島半が戦利品として持ち帰ってきたもの。(画像はHPより)
画像右: 天草市朗時貞像

本渡歴史民俗資料館
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約1500年前にあった本渡の古墳から出土したものから近世までの物が展示されていて、天草海軍航空隊の遺品などもあった。







殉教公園
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天草・島原の乱で亡くなった戦没者の千人塚やキリシタン墓地などがある。

もっと時間があれば、是非とも天草下島の南西に位置する大江天主堂などにも行ってみたかったが、いかんせんGWで各島を結ぶそれぞれ一本道の橋が大渋滞。泣く泣く戻ることに。

天草上島 松島展望台(ジパング松島)
天草上島の北にある展望台。4号橋などが見える。
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大矢野島 の宿へ。イメージ 23






展望風呂、そして夕食を。


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お刺身盛り合わせ 伊勢海老、黒鯛、カンパチ、コウ貝(=テングニシ)など

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イメージ 4ワタリガニ

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活けの車海老 頭は後で塩焼きに
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イメージ 7はも

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もだま(=ふか)の肝や子

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茶碗蒸し
白身魚などが入っていた

イメージ 10甲イカ

イメージ 11ワカメと筍

イメージ 13特産の茹でタコは 
その場でカット

イメージ 14がらかぶ(=かさご)のフライ

イメージ 15鯛の煮つけ

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伊勢海老のお味噌汁

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総じて漁師料理風で繊細さには欠けたが、土地のものが色々と食べられた。