知立市にある 無量寿寺 はカキツバタで有名。昨年、観に行った時はやや時期が遅かったので、今年再度観に行ってみた。昨年の様子は こちら

臨済宗妙心寺派のお寺。
奈良時代の慶雲元年(704年)の創立で、延喜2年(902年)に現在の場所に移されたと伝えられ「無量寿寺」と改められた。その後、廃寺に近い状態だったが、文化9年(1812年)方巌売茶(ほうがんばいさ)により再建され、カキツバタ庭園もこの時に完成。
ガイドをして下さるボランティアの方がおられたので、案内してもらった。敷地13000平米の庭園内に3万本のカキツバタがあるが、ここ5年で根ぐさりなどの病気で数が減り、今も移植するなどし、かつてほどの豪華さはないが、昨年よりは元気になって来たとのこと。

本堂の仏様の横には、在原業平像。
平安時代の歌人である在原業平が、この無量寿寺から10分ほど離れた場所で、「伊勢物語」にあるカキツバタの歌を詠んだとされている。

また、境内には「万葉椿」と言われる珍種がある。一説に、在原業平がこの椿の3つに先が分かれ金魚の尾のような葉を見て「万葉椿」とよんだところから、その後村人達が「業平万葉椿」と呼ぶようになったとか。

本堂から眺めた景色。昔は、八橋八景の一つとして村積山を借景として臨めたが、今はもう建物などが建って見えなくなってしまったのだそう。

カキツバタ 燕子花の由来
カキツバタを漢字では、「杜若」とも書くが「燕子花」とも書く。それは、3枚の花弁の咲き始めの様子が、まるで燕が飛んでいる時のように見えることから当て字にされたのだそう。花は4~5日間咲き、主に午前中の日差しを浴びて開花する。実際に10分ほどして同じ蕾を見るとどんどん開きかけているのがわかった。1本で4輪が咲くが、1輪目が一番大きく色鮮やかで美しい。
カキツバタ、アヤメ、ショウブの見分け方 wikipediaより

八橋の伝説
夫を亡くし、女手一人で8歳と5歳の二人の男の子を育てている女性が居た。お母さん恋しさから、子供達が川の対岸で働いているお母さんに会おうとし、橋のない川を歩いて渡ろうとして溺れて二人とも亡くなってしまった。子供二人をも亡くしてしまったお母さんは出家し、子供の菩提を弔ったが、夢枕に僧が現れ、明朝入江に行くとそこに材木があるのでそれで橋を作れ、それが子供の供養となる、と言ったのだそう。翌朝、実際に材木が入江に浮いていたことから、村人がその入江に材木を互い違いに8つかけて橋とし、以降この地が八橋と名付けられた。
お菓子の八ツ橋
元禄2年(1689年)、聖護院の黒谷(金戒光明寺)の参道のお茶店で作られたのが始まり。八橋(古くは助詞を付けない)の名の由来については、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説と、「伊勢物語」第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説がある。本家西尾八ツ橋によると、上述の古事を聞いて感銘を受けた京都の西尾家の先祖が橋の形に似せた米の粉で出来たおせんべいを作って八ツ橋と名付けた。以降、カキツバタの咲いている花全体の姿を横から見ると三角形に見えることから三角の生八ツ橋も考案されて行った。


庭には、江戸時代にこのお寺を再建させた上述の方巌売茶(ほうがんばいさ)のお墓(画像左)や、古事の2人の子供達のお墓がある(お母さんのお墓は別のお寺)。


3年がかりで昨年末に完成した在原業平像とその歌碑などもある。
寄付金1000万円を集め、像は富山、石碑は愛媛で作られたのだそう。
カキツバタを観に行っただけのつもりだったが、燕子花や八橋の由来、加えてお菓子の由来も知ることが出来て良かった。
そして、知立と言えば大あんまきの 藤田屋 なので、そこであんまきを食べることにした。その様子は こちら
因みに、この燕子花をモチーフに、江戸時代に尾形光琳が燕子花図屏風を描いているが、翌週に、根津美術館 で一般公開されていたのを観に行ったので、エピソードをふまえて観るとまた楽しかった。その様子はこちら


臨済宗妙心寺派のお寺。
奈良時代の慶雲元年(704年)の創立で、延喜2年(902年)に現在の場所に移されたと伝えられ「無量寿寺」と改められた。その後、廃寺に近い状態だったが、文化9年(1812年)方巌売茶(ほうがんばいさ)により再建され、カキツバタ庭園もこの時に完成。
ガイドをして下さるボランティアの方がおられたので、案内してもらった。敷地13000平米の庭園内に3万本のカキツバタがあるが、ここ5年で根ぐさりなどの病気で数が減り、今も移植するなどし、かつてほどの豪華さはないが、昨年よりは元気になって来たとのこと。


本堂の仏様の横には、在原業平像。
平安時代の歌人である在原業平が、この無量寿寺から10分ほど離れた場所で、「伊勢物語」にあるカキツバタの歌を詠んだとされている。

また、境内には「万葉椿」と言われる珍種がある。一説に、在原業平がこの椿の3つに先が分かれ金魚の尾のような葉を見て「万葉椿」とよんだところから、その後村人達が「業平万葉椿」と呼ぶようになったとか。

本堂から眺めた景色。昔は、八橋八景の一つとして村積山を借景として臨めたが、今はもう建物などが建って見えなくなってしまったのだそう。

カキツバタ 燕子花の由来
カキツバタを漢字では、「杜若」とも書くが「燕子花」とも書く。それは、3枚の花弁の咲き始めの様子が、まるで燕が飛んでいる時のように見えることから当て字にされたのだそう。花は4~5日間咲き、主に午前中の日差しを浴びて開花する。実際に10分ほどして同じ蕾を見るとどんどん開きかけているのがわかった。1本で4輪が咲くが、1輪目が一番大きく色鮮やかで美しい。
カキツバタ、アヤメ、ショウブの見分け方 wikipediaより


八橋の伝説
夫を亡くし、女手一人で8歳と5歳の二人の男の子を育てている女性が居た。お母さん恋しさから、子供達が川の対岸で働いているお母さんに会おうとし、橋のない川を歩いて渡ろうとして溺れて二人とも亡くなってしまった。子供二人をも亡くしてしまったお母さんは出家し、子供の菩提を弔ったが、夢枕に僧が現れ、明朝入江に行くとそこに材木があるのでそれで橋を作れ、それが子供の供養となる、と言ったのだそう。翌朝、実際に材木が入江に浮いていたことから、村人がその入江に材木を互い違いに8つかけて橋とし、以降この地が八橋と名付けられた。
お菓子の八ツ橋
元禄2年(1689年)、聖護院の黒谷(金戒光明寺)の参道のお茶店で作られたのが始まり。八橋(古くは助詞を付けない)の名の由来については、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説と、「伊勢物語」第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説がある。本家西尾八ツ橋によると、上述の古事を聞いて感銘を受けた京都の西尾家の先祖が橋の形に似せた米の粉で出来たおせんべいを作って八ツ橋と名付けた。以降、カキツバタの咲いている花全体の姿を横から見ると三角形に見えることから三角の生八ツ橋も考案されて行った。
本家西尾八ツ橋 : 「あんなま」1689年(元禄2年)創業
聖護院八ツ橋総本店(玄鶴堂) : 「聖(ひじり)」1689年(元禄2年)創業
聖光堂八ツ橋総本舗 : 「なまやつ」1850年(嘉永3年)創業
聖護院八ツ橋総本店(玄鶴堂) : 「聖(ひじり)」1689年(元禄2年)創業
聖光堂八ツ橋総本舗 : 「なまやつ」1850年(嘉永3年)創業


庭には、江戸時代にこのお寺を再建させた上述の方巌売茶(ほうがんばいさ)のお墓(画像左)や、古事の2人の子供達のお墓がある(お母さんのお墓は別のお寺)。

ひともとすすき 片手で結ぶと願い事が叶うという言い伝えから縁結びのすすきと言われている。

3年がかりで昨年末に完成した在原業平像とその歌碑などもある。
寄付金1000万円を集め、像は富山、石碑は愛媛で作られたのだそう。
カキツバタを観に行っただけのつもりだったが、燕子花や八橋の由来、加えてお菓子の由来も知ることが出来て良かった。
そして、知立と言えば大あんまきの 藤田屋 なので、そこであんまきを食べることにした。その様子は こちら
因みに、この燕子花をモチーフに、江戸時代に尾形光琳が燕子花図屏風を描いているが、翌週に、根津美術館 で一般公開されていたのを観に行ったので、エピソードをふまえて観るとまた楽しかった。その様子はこちら
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