東京で一泊することになった。
先月末に東京に行った際には時間の都合で行けなかったので、今回は、友人達との食事は勿論楽しみだが、美術館巡りをも目的のひとつとして、まずこの春にオープンした三菱一号館美術館に行くことにした。

開国間もない日本政府が招聘し、日本銀行や東京駅や鹿鳴館を設計したことで知られる英国人建築家ジョサイア・コンドル(1852~1920)の設計により、1894年(明治27年)に竣工。
コンドルは、辰野金吾の師匠であり、東京大学工学部の基礎を作った人物でもある。
全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式を用いた赤煉瓦の建物で、丸の内に初めて誕生したオフィスビル。当時は館内に三菱合資会社の銀行部が入っていたほか、階段でつながった三階建ての棟割の物件が事務所として貸し出されていた。
一号館建設の後も煉瓦造のオフィスビル群が建設され、その街並みは「一丁倫敦(ろんどん)」と呼ばれていた。
丸の内オフィス街誕生から百年余り経った1968年(昭和43年)に解体した一号館は、当時の設計図面や保管部材、写真資料などから明治期の姿を忠実に復元、階段部の手すりの石材など、保存されていた部材を一部建物内部に再利用したほか、意匠や部材だけではなく、その製造方法や建築技術まで忠実に再現
し、4月6日に美術館としてオープンした。

三菱一号館が出来たのと同じ頃、パリで活躍していたマネを開館記念としてとりあげられ、最初の7日間で2万人来場したことでも話題となった。
初期のマネの時代である1850年大は、ロマン主義の台頭後、レアリズムの影響の中、バルビゾン派やコロー、クールベなどの実験的近代絵画が生まれた時期でもあったが、マネは16世紀のヴェネツイア派や17世紀のオランダの画家のフランス・ハルスなどに関心を持ち、特に17世紀スペイン画壇のベラスケスに惹かれた。これら2つの作品にその特徴がみてとれる。
「ローラ・ド・ヴァランス」
1862年、1867年以降に加筆

この「死せる闘牛士」は、1864年にサロンに出品されると、スペイン趣味とおかしな遠近法に対して批難を浴びることとなり、下半分のこの作品と、上半分の「闘牛のエピソード」の2つにマネ自ら切断した。
現在、その上半分は、NYのフリックコレクションとなっている。因みに、そのフリックコレクションの絵はこちら →
詩人のボードレールに共感したマネは、一方では、都市に生きるさまざまな階層の人々を描いた。
ボードレールの愛人のジャンヌ・デュヴァルの肖像である
「扇を持つ女 (ジャンヌ・デュヴァルの肖像)」 1862年

フランス革命での民主化を絵画の世界で表そうとしたマネが発表した「草上の昼食」や「オランピア」は、アカデミーの約束事を白紙にする技法で、スキャンダラスな主題を扱う画家とされ、冷たい批評を浴びた。
「オランピアのための習作」など、オランピアのもととなる大小の作品も展示されている。

「エミール・ゾラ」 1868年
一方では、小説家のエミール・ゾラは新しい時代の芸術家としてマネを擁護した。
バックには、浮世絵やオランピアが描かれており、日本の絵画の影響を受けていたことも良くわかる。
親密さの中のマネ:家族と友人たち

マネの弟子であり、印象派の画家であったベルト・モリゾをモデルにした一連の作品を10点ほど描いているが、
今回はマネによるベルト・モリゾの肖像画が5点が観られる。

「横たわるベルト・モリゾの肖像」 1873年

ベルト・モリゾがマネの弟と結婚した後に描かれたものなのだそう。良家の子女でありながら30歳を過ぎてもずっと独り身で、マネの弟と結婚したが、何かその意味を探ってしまいたくなる絵でもある。
マネとパリ生活

マネは、展覧会よりも、アカデミズムと戦う為にサロンに出品し続けたが、さまざまなパリの人々を描いている。
「ラティイユ親父の店」 1879年


「自画像」 1878~1879年
生涯、油絵で描いた自画像はわずか2点しかないが、そのうちの一点。
この展覧会のほとんどの作品が現在改装中のオルセー美術館から来ているのに対し、これはブリジストン美術館からやってきていた。
シャクヤクが好きだったマネの花の絵などもあったが、日本趣味が色濃く出ている作品も多く興味深かった。
また、当時のパリの街の様子をおさめたアリストタイプやガラス製ネガからのシルバープリントなど、古い写真も展示されていたのも面白かった。
先月末に東京に行った際には時間の都合で行けなかったので、今回は、友人達との食事は勿論楽しみだが、美術館巡りをも目的のひとつとして、まずこの春にオープンした三菱一号館美術館に行くことにした。

開国間もない日本政府が招聘し、日本銀行や東京駅や鹿鳴館を設計したことで知られる英国人建築家ジョサイア・コンドル(1852~1920)の設計により、1894年(明治27年)に竣工。
コンドルは、辰野金吾の師匠であり、東京大学工学部の基礎を作った人物でもある。
全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式を用いた赤煉瓦の建物で、丸の内に初めて誕生したオフィスビル。当時は館内に三菱合資会社の銀行部が入っていたほか、階段でつながった三階建ての棟割の物件が事務所として貸し出されていた。
一号館建設の後も煉瓦造のオフィスビル群が建設され、その街並みは「一丁倫敦(ろんどん)」と呼ばれていた。
丸の内オフィス街誕生から百年余り経った1968年(昭和43年)に解体した一号館は、当時の設計図面や保管部材、写真資料などから明治期の姿を忠実に復元、階段部の手すりの石材など、保存されていた部材を一部建物内部に再利用したほか、意匠や部材だけではなく、その製造方法や建築技術まで忠実に再現
し、4月6日に美術館としてオープンした。

三菱一号館が出来たのと同じ頃、パリで活躍していたマネを開館記念としてとりあげられ、最初の7日間で2万人来場したことでも話題となった。

マネとモダン・パリ展スペイン趣味とレアリスム 1850~60年代

「ローラ・ド・ヴァランス」
1862年、1867年以降に加筆

「死せる闘牛士(死せる男)」1863~1864年
1865年頃切断と改変
1865年頃切断と改変

現在、その上半分は、NYのフリックコレクションとなっている。因みに、そのフリックコレクションの絵はこちら →

ボードレールの愛人のジャンヌ・デュヴァルの肖像である
「扇を持つ女 (ジャンヌ・デュヴァルの肖像)」 1862年

「街の歌い手」 1862年頃
このモデルは、ヴィクトリーヌ・ムーランで、「草上の昼食」や「オランピア」のモデルをつとめ、ベルト・モリゾと並ぶモデルだった。フランス革命での民主化を絵画の世界で表そうとしたマネが発表した「草上の昼食」や「オランピア」は、アカデミーの約束事を白紙にする技法で、スキャンダラスな主題を扱う画家とされ、冷たい批評を浴びた。
「オランピアのための習作」など、オランピアのもととなる大小の作品も展示されている。

「エミール・ゾラ」 1868年
一方では、小説家のエミール・ゾラは新しい時代の芸術家としてマネを擁護した。
バックには、浮世絵やオランピアが描かれており、日本の絵画の影響を受けていたことも良くわかる。
親密さの中のマネ:家族と友人たち

マネの弟子であり、印象派の画家であったベルト・モリゾをモデルにした一連の作品を10点ほど描いているが、
今回はマネによるベルト・モリゾの肖像画が5点が観られる。
「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」 1872年
ポール・ヴァレリーが「何よりもまず黒、絶対的な黒」と言わしめた作品で、黒は白い肌の色と琥珀色の瞳をより引き立たせ、内気な性格を表している。
「横たわるベルト・モリゾの肖像」 1873年

「扇を持つベルト・モリゾ」 1874年
最後に描かれた1点だけ、少し年をとった感じで横を向き、他の作品とは違った印象。ベルト・モリゾがマネの弟と結婚した後に描かれたものなのだそう。良家の子女でありながら30歳を過ぎてもずっと独り身で、マネの弟と結婚したが、何かその意味を探ってしまいたくなる絵でもある。
マネとパリ生活

マネは、展覧会よりも、アカデミズムと戦う為にサロンに出品し続けたが、さまざまなパリの人々を描いている。
「ラティイユ親父の店」 1879年

「秋(メリー・ローランの肖像)」 1881年頃

「自画像」 1878~1879年
生涯、油絵で描いた自画像はわずか2点しかないが、そのうちの一点。
この展覧会のほとんどの作品が現在改装中のオルセー美術館から来ているのに対し、これはブリジストン美術館からやってきていた。
シャクヤクが好きだったマネの花の絵などもあったが、日本趣味が色濃く出ている作品も多く興味深かった。
また、当時のパリの街の様子をおさめたアリストタイプやガラス製ネガからのシルバープリントなど、古い写真も展示されていたのも面白かった。
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