3連休だとういことをすっかり忘れていて、気付いたのが丁度その1週間前。
連休はとにかく日本国内は何処へ行っても混むため懲りていたので、近場で唯一フライトが未だ空いていたのが天津行き。だったら中華料理を食べに行こうかと急遽2泊3日で行くことにした。
天津には、中部国際空港からだけ直行便がある。
中部国際空港 9:40AM発 JL841便 天津11:50AM着(時差マイナス1時間)
天津空港から市内中心部へ向かう道。
中国は左ハンドル、右側通行で日本とは逆。
この広い4車線のハイウェイを我々は通行しており、左の大きな通行表示柱から左側が対向車線のはずだが、何故だか右からやってくる車が、、、んーー、いかにも中国らしい。
10日ほど前には、熱波が北京や天津を襲い、摂氏40度まで上がる酷暑となっていたそうだが、幸い行った時には曇天で33~34度と言ったところ。

連休はとにかく日本国内は何処へ行っても混むため懲りていたので、近場で唯一フライトが未だ空いていたのが天津行き。だったら中華料理を食べに行こうかと急遽2泊3日で行くことにした。
天津には、中部国際空港からだけ直行便がある。
中部国際空港 9:40AM発 JL841便 天津11:50AM着(時差マイナス1時間)

中国は左ハンドル、右側通行で日本とは逆。
この広い4車線のハイウェイを我々は通行しており、左の大きな通行表示柱から左側が対向車線のはずだが、何故だか右からやってくる車が、、、んーー、いかにも中国らしい。
10日ほど前には、熱波が北京や天津を襲い、摂氏40度まで上がる酷暑となっていたそうだが、幸い行った時には曇天で33~34度と言ったところ。

天津の中心部で歩行者天国の濱江道には
デパートや色々なお店が立ち並び活気があった。
ここは濱江道と和平路との交差点。
天津の3大名物のひとつである 「狗不理」 の包子。1858年創業。天津市内のあちこちに支店があるが、その本店へ。
「狗不理」とは「犬もかまわない」という意味。
父親が40歳の時に生まれた高貴友は、不運から守るため「狗子」と呼ばれていたが、14歳から包子を作って黙々と売っていて、それ以外の事に一切構わなかった(不理)ことから、この屋号になったのだそう。
西太后もこの豚まんを気に入ったと言われている。

狗不理伝統小駕系列包(6個)76元
(約988円)

デパートや色々なお店が立ち並び活気があった。
ここは濱江道と和平路との交差点。
「狗不理」でランチを

「狗不理」とは「犬もかまわない」という意味。
父親が40歳の時に生まれた高貴友は、不運から守るため「狗子」と呼ばれていたが、14歳から包子を作って黙々と売っていて、それ以外の事に一切構わなかった(不理)ことから、この屋号になったのだそう。
西太后もこの豚まんを気に入ったと言われている。


百年醤四宝 108元 (1元=13円として約1404円)
タンや耳、心臓などの冷製アペタイザー。
タンなどはNYで良く食べたジューイッシュ系の
パストラミを彷彿とさせられる味だった。
ビールと共に。
タンや耳、心臓などの冷製アペタイザー。
タンなどはNYで良く食べたジューイッシュ系の
パストラミを彷彿とさせられる味だった。
ビールと共に。

(約988円)

伝統猪肉包(豚肉という意味)、伝統三鮮包、対[虫下]青韮包、百年醤肉包、香葱牛肉包、星貝芥菜包の6種類。
三鮮という豚肉や海老の入ったものが美味しかった。
中央のものはスープで、貝のスライスが入った胡椒がしっかり入ったもの。
狗不理総店
和平区山東路77号 022-2730-2540
1860年にイギリスやフランスと中国とで結ばれた北京条約によって、天津は通商港として解放され、9カ国(イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ロシア、ドイツ、日本、オーストリア・ハンガリー、ベルギー)の租界地が置かれることとなった。1860年のイギリスとアメリカに始まり、日本は1895年~1945年まで、そして1947年までのイギリスで各国の疎開は全て終わる。
疎開による外国文化の影響が強かった天津は、新中国建国後、政府によって発展を抑えられた面があり、改革開放後も華南地方や上海に比べて経済はずいぶん遅れを取ってしまったが、そのお陰で租界時代の建築物がそのまま長く残されることとなった。そしてようやく21世紀になって、天津市政府も疎開の歴史的建築価値を認めるようになり、保護建築や地域を指定して保存している。
このように多くの国の租界地が置かれたのは天津だけ。
解放北路は、当時の世界各国の金融機関が集まっている。

旧フランス領事館

旧横浜正金銀行天津支店(後の東京銀行)


現在これらの建物のほとんどは、金融関連やお役所として使用されているので、土曜に行ったこともあり人影がまばら。
これらの建物だけを見ていると、まるでヨーロッパの何処かの街角にいるみたいだった。
天津の町中あちこちで建築ラッシュとなっていたが、近くには、疎開の建物をイメージした新しいビルを建てて映画館などにしている広場もあるかと思えば、

古い天津の中心地として1405年(明時代の永楽2年)に設置された天津衛城。現在は、その鼓楼が残っている。
ガイドブックには無料とあったが、入口のおじさんはチケットブースのような建物を指さしてそちらに行けと。行ってみるとそこには誰もおらずに鍵がかかっているのでおじさんに身振り手振りで説明すると、じゃあ良いよ、と入れてくれた。果たして有料だったのか、無料だが外人なので記帳をしなければならなかったのかは不明・・・


鼓楼中には、かつてこの辺りの胡同(フートン)と言われる
横丁の様子が展示されていた。
鐘は、お布施をすれば打たせてもらえる。

古い町並みはとても美しいのだが、ぐるりと囲むように高層ビル群が立ち並び、時代の変遷を感じさせる。
すぐそばにある博物館では、かつての町並みのミニチュアや当時の写真などが展示してあった。

その2 へ。
三鮮という豚肉や海老の入ったものが美味しかった。
中央のものはスープで、貝のスライスが入った胡椒がしっかり入ったもの。
狗不理総店
和平区山東路77号 022-2730-2540
解放北路
天津は、疎開建築が見どころの一つ。1860年にイギリスやフランスと中国とで結ばれた北京条約によって、天津は通商港として解放され、9カ国(イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ロシア、ドイツ、日本、オーストリア・ハンガリー、ベルギー)の租界地が置かれることとなった。1860年のイギリスとアメリカに始まり、日本は1895年~1945年まで、そして1947年までのイギリスで各国の疎開は全て終わる。
疎開による外国文化の影響が強かった天津は、新中国建国後、政府によって発展を抑えられた面があり、改革開放後も華南地方や上海に比べて経済はずいぶん遅れを取ってしまったが、そのお陰で租界時代の建築物がそのまま長く残されることとなった。そしてようやく21世紀になって、天津市政府も疎開の歴史的建築価値を認めるようになり、保護建築や地域を指定して保存している。
このように多くの国の租界地が置かれたのは天津だけ。
解放北路は、当時の世界各国の金融機関が集まっている。

旧フランス領事館
旧アメリカ海軍倶楽部


旧横浜正金銀行天津支店(後の東京銀行)


現在これらの建物のほとんどは、金融関連やお役所として使用されているので、土曜に行ったこともあり人影がまばら。
これらの建物だけを見ていると、まるでヨーロッパの何処かの街角にいるみたいだった。


建築中の高層ビルの麓には、半分取り壊されては
いるものの未だ住民がいる建物も。
いるものの未だ住民がいる建物も。
天津旧城 鼓楼


ガイドブックには無料とあったが、入口のおじさんはチケットブースのような建物を指さしてそちらに行けと。行ってみるとそこには誰もおらずに鍵がかかっているのでおじさんに身振り手振りで説明すると、じゃあ良いよ、と入れてくれた。果たして有料だったのか、無料だが外人なので記帳をしなければならなかったのかは不明・・・


鼓楼中には、かつてこの辺りの胡同(フートン)と言われる
横丁の様子が展示されていた。
鐘は、お布施をすれば打たせてもらえる。


古い町並みはとても美しいのだが、ぐるりと囲むように高層ビル群が立ち並び、時代の変遷を感じさせる。
天津老城博物館


その2 へ。
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