1日目九頭竜温泉 からの続き
九頭竜温泉を後にして、少し福井市よりの奥越前の城下町である大野に行ってみた。

九頭竜温泉界隈では涼しく、温泉に入った後でもクーラーもいらないぐらいだったが、さすがに大野は暑く、大野城には徒歩でしかあがれないようだったので天守閣などに登ることは断念。

何故だか甲冑を来たお兄さんが歩いている。お仕事かと思いきや、趣味で着ておられるそうで、地元の人には顔なじみの様子。各お店に声をかけながらゆっくり闊歩されていた。
天正年間(1573~1591年)に、上記の金森長近が大野城と大野城下を建設した際に造られた朝市は400年以上の歴史がある。ここの朝市の特徴は地べた(路上)商いで、その姿は中世の絵巻物にも描かれている。

江戸時代の階級意識が厳しい時代にあっても、殿様などの行列は七間通りの市場は商いの妨げになるとして通らなかったのだとか。当時は、毎月一、四、七、十の付く日に開かれ、追って2日ごととなり、現在は春分の日から大晦日までの毎朝開かれている。
2階部分には大火の延焼を防ぐための「袖壁」が隣の建物との間にほどこされている。この南部酒造の1階のひさしは、「下屋庇 げやびさし」で、古い町屋には下屋庇がついている。雨風をしのぐ以外にも家の風格や装いを示している。


マタタビは今の時期に採れるとのことで売っていたが、またたび酒にするのだそう。
この七間通りで、銘菓のけんけらを 朝日屋 で、
きんつばや水饅頭を 伊藤順和堂 で買った。





庭の花には綺麗な黒アゲハがやって来ていた。

城下町づくりとして、城から東側に武家屋敷、町人の町、そして一番東側に寺町を配置したが、寺町は城下町の東の防御壁ともなっている。真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗など9つの宗派のお寺が立ち並んでいる。

ランチとして、まず とみたや でおろし蕎麦を。量が少なめだったので、お蕎麦の梯子として 七間本陣 で再びおろし蕎麦やたぬき蕎麦を。
大野には、「福井の美味しい水」に認定された湧水地6か所があるので、いくつかを巡ってみた。

水船とは、かつて谷や川から取水した水を利用するために使われた貯水槽のことで、山間部の集落で木を半分に割ってくりぬいた「水船」が利用されていた。右が飲料水、真ん中で野菜を洗い、左の下段は食器や鍋を洗う場所だった。


やはり、高い位置から、飲料水用、野菜の洗い場、食器の洗い場と分かれている。飲んでみたが、まろやかでとても美味しい水だった。

平成の名水百選に選ばれている。こちらも飲んだが、とても美味しい。前述の越前大野城の城主である金森長近が住民の生活用水として整備した。名前の由来は、昔この付近に本願寺派のお寺があったからとも、本願寺派の門徒を使って掘り拡げられたからとも言われている。陸封型魚類のイトヨ生息地の南限として国の天然記念物に指定されている。市内に約1万匹いるイトヨのうち、約6千匹が生息している。地元では「イトヨ」ではなく「ハリシン」とも呼ばれている。


イトヨはトゲウオ科イトヨ属の一種。
イトヨ属には、イトヨとハリヨがあり、ハリヨは先日岐阜の曽根城公園で観たところだったので、比較が出来たのも良かった。ハリヨの様子は こちら 身体に刺を持つ体長約5センチの魚で、綺麗な冷たい湧水でしか生息できない。淡水型と、鮭のように川を上る遡河型の2つのタイプがある。館内では、各種展示による説明や、ビデオ上映などもされていてイトヨのことが詳しく解説されており、興味深かった。
そして、大野を後にして永平寺へ。
九頭竜温泉を後にして、少し福井市よりの奥越前の城下町である大野に行ってみた。
越前大野城

織田信長の武将の金森長近によって建立。
1524年に美濃(岐阜県)に生まれた金森長近は、18歳で織田家につかえ、当時8歳の信長の身の周りの世話をしていた。信長の「長」の字をもらって「長近」と改名し、大野郡に約3万5千石を与えられた。その後の1586年には、秀吉の命で攻め落とした飛騨一国を与えられ高山城を築き、関ヶ原の合戦では東軍に加わり後に小倉山城を築いた人物でもある。越前大野城は、後の江戸初期には松平氏が藩主になり、江戸中期から幕末までは土井氏が藩主を務めた。外堀と内堀をめぐらして石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはなかった新しい方式で建てられている。九頭竜温泉界隈では涼しく、温泉に入った後でもクーラーもいらないぐらいだったが、さすがに大野は暑く、大野城には徒歩でしかあがれないようだったので天守閣などに登ることは断念。
朝市(七間通り)

何故だか甲冑を来たお兄さんが歩いている。お仕事かと思いきや、趣味で着ておられるそうで、地元の人には顔なじみの様子。各お店に声をかけながらゆっくり闊歩されていた。
天正年間(1573~1591年)に、上記の金森長近が大野城と大野城下を建設した際に造られた朝市は400年以上の歴史がある。ここの朝市の特徴は地べた(路上)商いで、その姿は中世の絵巻物にも描かれている。

江戸時代の階級意識が厳しい時代にあっても、殿様などの行列は七間通りの市場は商いの妨げになるとして通らなかったのだとか。当時は、毎月一、四、七、十の付く日に開かれ、追って2日ごととなり、現在は春分の日から大晦日までの毎朝開かれている。
2階部分には大火の延焼を防ぐための「袖壁」が隣の建物との間にほどこされている。この南部酒造の1階のひさしは、「下屋庇 げやびさし」で、古い町屋には下屋庇がついている。雨風をしのぐ以外にも家の風格や装いを示している。

中央の黄色い花はオクラの花。未だ食べたことがなかったので買ってみることに(1輪20円)。一緒にその手前の丸いレモンキュウリなるものも。
ブログでお世話になっている NEWさん が、以前にオクラの花のことを書いておられたので、一度は食べてみたいと思っていた。オクラの花は花弁だけにしてそのままか湯通ししてお刺身に出来るとのこと。生で食べてみたが、花弁と言えども粘り気があるのが面白い。レモンキュウリというのは、やや皮が硬い印象。
マタタビは今の時期に採れるとのことで売っていたが、またたび酒にするのだそう。
この七間通りで、銘菓のけんけらを 朝日屋 で、
きんつばや水饅頭を 伊藤順和堂 で買った。
武家屋敷

家老の生家。
蘭学の振興、洋式帆船「大野丸」の建造、蝦夷地開拓などの事業を推進し、「面谷銅山」の開発など、幕末に大野藩の藩政改革を行った時に財政再建を手助けした家老の内山七郎右衛門良休と隆佐良隆兄弟の生家を復元したもの。良休は、武士でありながら商いを学び、全国37店舗の藩直営店の「大野屋」というチェーン店の先駆けをつくった。弟の隆佐は、蝦夷地に行き、1860年代には北蝦夷地内(樺太)の幕府が許可した土地が大野領にもなったこともある。


2階部分は倉庫になっていて、1階の台所などとで荷物の上げ下げをする為の滑車が設置されている。

庭の花には綺麗な黒アゲハがやって来ていた。
寺町通と石灯籠通

城下町づくりとして、城から東側に武家屋敷、町人の町、そして一番東側に寺町を配置したが、寺町は城下町の東の防御壁ともなっている。真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗など9つの宗派のお寺が立ち並んでいる。

石灯篭通
ランチとして、まず とみたや でおろし蕎麦を。量が少なめだったので、お蕎麦の梯子として 七間本陣 で再びおろし蕎麦やたぬき蕎麦を。
大野には、「福井の美味しい水」に認定された湧水地6か所があるので、いくつかを巡ってみた。
水船清水

水船とは、かつて谷や川から取水した水を利用するために使われた貯水槽のことで、山間部の集落で木を半分に割ってくりぬいた「水船」が利用されていた。右が飲料水、真ん中で野菜を洗い、左の下段は食器や鍋を洗う場所だった。
御清水(おしょうず)

名水百選に選ばれている。越前大野城が建つ亀山の東麓の湧水帯にある清水のひとつで、城主の飯米を炊くのに使われていたことから、敬意を評して「御清水」あるいは「殿様清水」と呼ばれていた。

やはり、高い位置から、飲料水用、野菜の洗い場、食器の洗い場と分かれている。飲んでみたが、まろやかでとても美味しい水だった。
本願清水

平成の名水百選に選ばれている。こちらも飲んだが、とても美味しい。前述の越前大野城の城主である金森長近が住民の生活用水として整備した。名前の由来は、昔この付近に本願寺派のお寺があったからとも、本願寺派の門徒を使って掘り拡げられたからとも言われている。陸封型魚類のイトヨ生息地の南限として国の天然記念物に指定されている。市内に約1万匹いるイトヨのうち、約6千匹が生息している。地元では「イトヨ」ではなく「ハリシン」とも呼ばれている。
イトヨの里

本願清水の横に造られたイトヨの里の建物の低い位置からは、自然の清水を水中から眺められるようになっているのが非常に面白かった。

イトヨはトゲウオ科イトヨ属の一種。
イトヨ属には、イトヨとハリヨがあり、ハリヨは先日岐阜の曽根城公園で観たところだったので、比較が出来たのも良かった。ハリヨの様子は こちら 身体に刺を持つ体長約5センチの魚で、綺麗な冷たい湧水でしか生息できない。淡水型と、鮭のように川を上る遡河型の2つのタイプがある。館内では、各種展示による説明や、ビデオ上映などもされていてイトヨのことが詳しく解説されており、興味深かった。
そして、大野を後にして永平寺へ。
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