この週末に、カブトビールの赤レンガの建物が内部公開されるとのことだったので、26日に行ってみることにした。全く知らなかったのだが、この日はJRがハイキング企画を行っており、そのお陰で普段なら予約が必要なミツカンの工場や國盛の中埜酒造も終日一般公開となっていた。
半田運河
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半田運河の両側には黒板囲いの蔵が続き、なかなか良い風情。環境省の「かおり風景100選」にも選ばれている。

 



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半田運河の両側にはミツカンの黒板囲いの工場があり、運河をまたいで酢のパイプが伸びていたりもする。
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ミツカン 博物館「酢の里」
もともと酢が日本に伝わったのは、5世紀頃に中国から酒造りと共に入って来た。
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そして文化元年(1804年)に、ミツカンの創業者である中野又左衛門が原料をお米ではなく酒粕とした「粕酢」の醸造に成功。
3年ねかした酒粕をふやかして絞り、その半分を温めて残る半分と併せてさらに1~3ヶ月酢酸発酵させ、藁灰や石や砂などで濾過した。

←左が酒粕、右は3年置いた酒粕。


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酢酸発酵させているもので、3日目。
現在では14日で完成するのだそう。
すでに黒い色となっているが完成した
酢も黒く、アミノ酸が多くてまろやか。





イメージ 15江戸時代の文化文政(1804~1830年)頃に、福井藩出身の花屋与兵衛が考案したのが握り寿司の始まり。
岡持ちやお店で食べることもあったが、もっぱらは屋台料理。お店の人は奥で正座、お客さんは立ち食い。
一個の大きさが現在の約2.5倍の45グラムもあり、非常に大きい。ネタには、こはだ、鯛、赤貝、穴子、イカ、白魚などが使われていたが、マグロやタコは下等な食材として使用されず、マグロのトロなどは脂が多過ぎるので捨てられていた。味付けは、米酢よりも酒粕酢の方が旨味があったので、酢は半分の量とし、砂糖は当時高級だったので使用せず、塩を現在の3倍使って、醤油をつけて食べなかった。また、刻んだ海苔をしゃりに混ぜることもあった。
当時はお米から作る酢よりも酒粕酢はより手頃だったこともあって握り寿司が江戸で普及。
1923年関東大震災を機に、寿司職人が東京から地方に移り住んで江戸前寿司が全国に広がることになった。
 
現在、酒粕を使った酢は、この酢以外であれば、穀物酢に使用されているが、穀物酢には他にとうもろこし、小麦、米が合わさっている。
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帰りに酒粕酢を購入したのだが(一番右)、500ミリリットルで700円。
因みに、「おむすび山」や「すだち三昧ぽんず」はお土産として頂いたもの。
 
ミツカンのマークは、4代目が家紋から考案し、姓も中野あらため中埜に変更。
家紋は、三本線を○で囲んだもので、三本線をミツ、○をカンと呼んでいた。三の字の下に○をつけたのは、天下一円に行き渡るようにという易学上の考えからなのだそう。

中埜酒造 國盛「酒の文化館」
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弘化元年(1844年)創業。
半田では下駄を履いて歩けと江戸時代には言われるぐらい、酒造用の水が井戸から蔵へ桶で運ばれ、道は水浸しだったのだそう。後に、井戸水を効率的に運ぶ為に江戸時時代終わりには総延長7キロのひのき製の管(桶管=とひ)を使った。
 
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この樽で30万石、3000本の日本酒が作られた。
現在はステンレス製に変わり、ひとつで300万石を製造出来る。
 
見学最後には、日本酒3種類と梅酒や梅酢などを試飲させてくれる。

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4本の飲み比べセットを購入。860円。



敷地内の建物は、明治23年(1890年)の陸海軍の大演習の大本営に使用されたのだそう。

小栗家住宅
イメージ 5明治初年頃の建築と推定される主屋は、寄棟造り棧瓦葺の屋根を持つ二階建。国の登録有形文化財に登録されている。一階部分はインフォメーションセンターとして公開されているが、奥は現在も14代目?の方々が住んでおられるプライベートな場所として内部写真のみ見ることが出来るが、それだけでも十分豪華さがわかる。
幅は狭いが奥に非常に広い造りとなっていて、広大な庭には、お寺まであるとか。
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半田赤レンガ建物 (旧カブトビール工場)
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建築家、妻木頼黄(つまきおりなか)による設計。
上記の中埜酢店の4代目の中埜又左衛門の指示で、常滑にある造り酒屋の盛田家分家の盛田善平がビール業を始めた。
盛田家と中埜家の家系図をみると、非常に密接。盛田酒造といえば、「ねのひ」などで有名だが、15代当主が、ソニー創業者の一人である盛田昭夫氏。

明治29年創業の「カブトビール」の醸造工場として建設され、第2次大戦中は中島飛行機製作所の倉庫として使用され、その後、日本食品化工のコーンスターチ工場となり、平成8年3月に半田市が取得した。国の登録有形文化財。ハーフティンバーという木骨の間に煉瓦を充てんした木骨煉瓦造りの耐震建築。
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1945年7月の米軍のP51の
機銃掃射の跡が残っている。

壁から取り出された弾丸
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5重の複壁は、壁の内面と外面との間に空気層を持たせて断熱効果と湿度変化を少なく保つ効果があった。
 



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240万本の煉瓦を使用しているが、フランス積み(右)ではなく、イギリス積み(左)としたお陰で昭和19年の東海地震の時も壊れなかった。また、床も耐火床になっている。


ビールの樽を効率良く保管するために、壁や闔がビール樽の形に削ってある。イメージ 24
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明治39年頃から王冠を使うようになったが、それまではコルク栓だった。


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すでに4大ビールメーカーがあったので、その後発として作られ、1900年のパリ万博では金賞を受賞。その後合併などがあり、今となっては幻のビールになってしまったが、復刻されたものを建物公開時に飲めるとのことなのでためしてみた。一本500円。コクがある黒ビールでギネスのようだが、よりすっきり感がある。
旧中埜家住宅
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明治44年(1911年)に建てられた手割スレート瓦屋根、北欧風飾り窓やバルコニーなど明治・大正ロマンを感じさせる建物。国の重要文化財。現在は紅茶専門店となっている。
 





他にも界隈には何処までも延々と続く黒板塀と生垣の家があり、表札を見るとやはり中埜家だった。。。
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矢勝川堤
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彼岸花で有名な堤。満開とまではいかないが結構咲いていた。
満開時の堤の彼岸花は圧巻だろうが、やや人工的に植えた感があるので、やはり田んぼのあぜ道に自然と生えている方が好きかなと。